小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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カルテの裏側

育つ子どもたち

2020年08月05日

人間の記憶は、中学生の頃が一番残ると言われている。私も例にもれず、1964年に東京オリンピックが開催されたとき、中学校の試験勉強の合間に観たいくつもの試合のことを覚えている。試合だけではなく、選手の試合に臨む所作も思い出深いものが多い。後年、覚えていたことが多くて、会話の材料に事欠かなかった。そして、私はいつしか東京オリンピックを知っている世代とそうでない世代を区別するようになった。それはあまりよろしくないことであるが、東京オリンピックを知らないなど、まだ若い、若い、というそれである。

さて、診察室には私の子ども世代が各々子どもを連れてやって来るようになって久しい。その子どもたちは、年を経るにつれてあまり病気をしなくなり、いつしか来院しなくなる。それでも、時々は風邪を引いてやって来ることがある。そのときの成長した姿をみて、私は、「大きくなったね」と声を掛ける。大抵は、はにかんだり、ぶすっと顔をそむけたりして、いわゆる思春期がそこにある。ある日、ある子どもに、「大きくなったね」と言ったときのことである。「大人はみな、大きくなったとしか言わない」と返してきた。これには、一本やられたという気分だった。

私は、小さな子どもが診察室に入ってきたとき、おはよう、ではなく、おはようございます、と言うことなどを始めとして、大人と同じように接しているつもりでいた。しかし、大きくなったとしか言わないと返されてからというもの、そうではないことに気がついた。すなわち、子どもの立場にたっていなかったのである。子どもとは、身体が大きくなるだけの存在ではないということを、子ども自身が体感しているであろうことを想像できなかったのである。件のオリンピックを知る、知らないと分けたことも、今思うと独善に陥っていて、おそらく子どもの立場にたたないことと同じカテゴリーに属することではないかと自省している。

子どもは、とにかくよく遊び、動き回る。体重あたりのエネルギー消費は、大人とは比べ物にならないくらい多いのではないか。それぞれが、昨日に比べて今日のほうが面白いことがあり、いっぱい遊んだ、というように、多彩で濃密な毎日をおくっているはずである。よほどの不都合な環境でない限り、明日を楽しみにして布団に入るのではないかしら。いっぱいの遊びを脳の細胞に余裕をもってファイルする。そんなことを積み重ねるうち、ある時は、世の中を一律に見ないで複雑化していることを学ぶ力を養うだろう。また、自由を獲得して、自らが成熟していることを目の当たりにしているのだろう。というように、思いつくままに子どもの世界を想像してみたら、その成長の過程に膨大な量があることを改めて思う。「大きくなったね」は、子どもたちには偏向した見方しかしていない言葉だったのだろうと思う。

古希を迎えた今、私はこれから子どもとどのように接しようかと考えている。子どもの立場に立つことはもちろんのこと、大人には子どもを育てる役割があることは言うまでもないことである。そんなことを踏まえて、上下関係ではなく、混然一体とした関係のなかで、子どもたちの言葉に耳を傾け、行いを楽しく見ていくつもりである。こうして70年も生きると、子どもたちも、その親たちも総じて若い。若さで区別したのも今は昔、育てるものは育てられるのである。