時世の粧い
弔辞に代えて
2022年10月09日
友は、私が大学に入学して所属したワンダーフォーゲル部にいた。一学年下の私に同じ匂いを嗅ぎ分けたのか、何かと声掛けしてくれた。あるときは、家に来ないかと誘ってくれて、夜を徹して語り明かした。
友は、読書家だったことはまちがいない。部屋の書棚に長編ものが多くあった。本に囲まれた中、音楽好きの私に釣られて、音楽談義もした。チャイコフスキー、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」第一楽章。これは悲歌的な楽章と題されていて、奏者がアクセントをつけて強く演じる部分があり、そこを何度も口ずさんでいた。私の前でも、感情の高ぶりを隠さず、腕を振り、涙しながら。
友は、ある部活の山行で、雨でずぶ濡れになって、消耗したままテントを張っていた。そこで偶然つけたラジオで、シャルル・アズナヴールが「イザベル」を歌っていたのを耳にしたという。恋人を震えるような声で何度も呼び掛ける、その歌と疲れ果てた自分との落差を嘆き、逆に歌に惹き込まれたことを何度か口にした。
友は、実家が経営する寿司屋に、私を連れて行ってくれた。ただ酒、ただ飯を何度いただいたことか。御馳走になって別れてから、電話をよくもらった。私は妹と同居していて、電話をひいていたから、友は家族を離れて公衆電話からかけてきたのである。当時、都内は10円で無制限にかけられた。1時間、2時間と、暑い日も寒い日も話し込んだ。その後、通話料金に時間制限ができたことを恨めしく思ったものだ。そして、ある休日、京都まで旅行し、彼の苦く、しかも甘い思い出を蘇らせることにつき合わされた。総じて、何をしたいのか、何にこだわるのか、をいつも披露してくれていたように思う。
友は、学生結婚した。私は当然のように新婚家庭に押しかけて泊まった。パートナーに疎んじられたものの、さしたることもないように私には振る舞ってくれた。社会人になってからは、さすがに縁遠くなったのだが、友が立ち上げた病院に誘われて、しばらくの間勤務し、院長のあるべき姿、病院の使命など、本来の仕事を離れて時間を割いたのは、ついこの間のことのようである。
その友が急死した。コロナ禍もあるなかで、最近は電話でしか話ができなかった。このところは執筆活動をしていることを、何度となく聞いた。実際に本を複数冊送ってくれて、これからもまだ書くことがあると言っていた。さらに先の計画もあり、彼ならではの老後を描いていた。志半ばとなったことを無念であろうと思う。
友を偲んで、チャイコフスキーを聴く。シャルル・アズナヴールを聴く。繊細さと大胆さ、弱さや無神経さ、彼が持ち合わせるいくつもの顔に、私は惹かれ、突き放しもした。生きていればこそ、という言葉が白々しく感じるいま、失ったつらさがしばらく消えそうにない。