小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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音のこと

声に惹かれて

2023年11月23日

東京神田の古本屋街を、コロナ禍前のある日に歩いていたときのことである。街にある多くの騒音と切り分けられて、ソプラノの声が突然聴こえてきた。それは、騒音に抗して、よく響く声で、私の耳元まで達した。何という声だろう。そして、もの悲しいメロディ。瞬く間に、私は言わば虜(とりこ)になってしまった。

この歌そのものを間近で聴きたくなった。おそらくCDだろう。その鳴らしている現物を見たくなった。もう夢中で音源場所を探した。どうも上の方から聴こえてくるようだ。階段を見つけなければならない。階段が見つからない。その間に、流れている声が途切れて、どこに在るのかわからなくならないだろうか。やっと眼にした階段を小走りに上った。果たして、それは階上のほとんど人が寄り付かないような店構えの中にあった。この歌を間近で聴いていると、やっと会えたというような感慨無量の面持ちになった。

初めて耳にしたとはいえ、ロシアの歌だと思いつつ、店主に曲を確かめたら、ロシアのロマンティックな歌を集めた輸入CDの冒頭の曲だった。Dubuque作曲、Do not chide me,mother。叱らないで、お母さん、と訳したらいいのか。これは、すぐに口ずさむことが出来る易しい曲である。歌い手は、カイア・アーブというエストニアのソプラノ歌手。短い曲がいくつも収録されていて、その場で何曲かを試聴し、そして購入したのである。

家に戻ってから、このCDを折に触れて聴いている。しかし、どういうわけだか神田で耳にしたときのような感懐はないのだ。もちろん、落ち着いて聴いているし、その都度、身体に染み入るので、不満などはない。しかし、何かが違う。すなわち、虜になったエネルギーがいまはないのである。

以前、私は駅ピアノを弾いた。そのとき、ちょうど電車から降りてきた大勢のお客の足音や話し声などが周りに生じたことで、返って弾くことに集中できたことがあった。そんなことを思い返していると、神田の街中の騒音とソプラノの声が対置することによって、今度は弾くのではなく、聴くことに思った以上に集中できたのではないかと、想像したのである。確かに、クルマが何台も駆けているなかで聴こえたソプラノ。静かな我が家で聴くこととは、ちがいが自明である。騒音の中の声と私の脳内とが、これまでにない「化学反応」をしたのだと夢想した。耳鼻咽喉科名誉教授だった角田忠信は、雑音を右脳で聴くなど、脳には機能差があることを追究していた。私が騒音のなかで弾いたり、聴いたりしたことは、角田の述べたこととは関連がないことは承知しているものの、聴く条件によって、その内容を脳内に刻む、刻み方が異なるのだろうと思ったのである。

騒音の中の「創造美」。体験をしたからこそ、このように記してみたくなった。

 

追伸

カイア・アーブが歌ったDo not chide me,motherは、ユーチューブで試聴可能である。

https://www.youtube.com/watch?v=qWatGGRSCSw

 

身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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