音のこと
エンジン・サウンド、わが暮らし
2014年01月08日
私の住んでいる紀州は、山地が海まで迫っている。公共交通機関は少なく、クルマは必需品だ。山では時が移るつれて、芽吹いた若葉、それらが揃った青葉そして成長して深い緑へと変化を繰り返し、その様子が運転席に入り込む。緑色を横目に、右足でアクセルを踏み、高まる音を聴きながらクルマを駆る。
人は運転している時、クルマのエンジン音がどの程度気になるのだろうか。私は、どちらかというと気になる方で、クルマ雑誌を読んでいても、音に関する記事に注目する。クルマ選びをするとき、好きになるには音が重要な要素なのである。
さて、規則的振動波形を持つ音を「楽音」、不規則なそれを「騒音」というが、街中ではどちらかというと騒音に分類されるエンジン音を快く感じることは、勝手な人間の独りよがりだろう。愛車のエンジンの音が好きなのは当たり前ではないか、と言われそうだが、「楽音」であるピアノの音がうるさいとしばしば騒動になるように、人の感じ方はさまざまである。この「騒音」「楽音」を自分のものとする、つまり不快に感じないのは、それをどれだけ受け入れられるか、ということに尽きるだろう。このこととクルマの音づくりとが相まって、聴覚を通した至福の時が準備される。
雑誌の付録CDに収録されたイタリア高級車のエンジン音を聴いた。やや狭いダイナミック・レンジで、期待したよりオン・マイクではない録音が残念であるが、常に高めに調整したかのようなピッチで鳴り続けているエンジン音が、聴けば聴くほど精妙さを増す。低回転の時がチェロ、高回転がヴァイオリンと、単純に比べてはいけないが、楽器を連想してしまうほど、「騒音」としては文句ない音がそこに在った。音づくりをする志に思いを馳せ、リピートを押してしまう。こんな音を我が家の一室で聴くことが出来るぜいたくさをどう表現すればよいものなのか。毎日耳にする自分のクルマのエンジン音から受ける「うん、これが生活だ」という、ごくありきたりの満足な気分とは異なる日常性の中の非日常性!
しかし、今どれだけ愛車から出る音に力づけられているかを考えるとき、単にクルマの音だけでも、いくつもの充実感を持てるんだな、と改めて認識できた。もしサーキットに行けば、おそらくCDで聴くのと同じような音体験が出来ると思うが、すばらしい音に日々出会う偶然、さらにそれを愛車の中に体現できることが、クルマを好きな人間の、ささやかだが暮らしの中で見つける価値のあるひと時ではないか、と思う。
(CG437号投稿、加筆修正す)