音のこと
ベートーヴェンの借用
2014年05月18日
FM放送のトーク番組で、よく似た音楽の特集をしていた。いくつもの曲を紹介していたが、その中で、フランク永井が歌った「宵闇迫れば」という節と、サラサーテの作ったチゴイネルワイゼンの最初のところが全く同じ旋律だったので、聴いていて面白かった。作曲についての昔読んだ本を読み返してみた。音楽の旋律的な流れは、若干の禁じ手を除いてほとんど自由だが、音を響くように積み重ねなければならず、転じるときにもある程度の約束ごとの上に作らなければならない、などど書かれていた。和声や対位法にかなった方法、手段をとらなければならないから、このような制約の中で、音楽が似てしまうことは、仕方のないことだ、と思う。
番組では紹介されなかったが、ベートーヴェンの英雄交響曲の出だしは、モーツァルトの初期作である歌劇「バスティエンとバスティエンヌ」の出だしと同じ旋律である。私の高校時代に、クラブの後輩たちが、この歌劇を取り上げた。ちょうど同じ頃に音楽の授業で、ベートーヴェンの方の出だしを教わり、私は、同じ旋律であることをずっと意識し続けていたのである。両者の出だしは、ド、ミ、ソの三音のみを使っている。ドからミに上がり、再びドに戻り、下のソに行き、三たびドに戻る、という流れである。しかも両者とも同じリズムなのだ。
英雄交響曲は、野村光一の解説によると、「精密な設計の下に組み立てた」とある。さらに、出だしのことを「主音の三和音を崩したような音型から構成され、『バスティエンとバスティエンヌ』の序曲から借用したものであると言われる」と書かれている。ベートーヴェンが、この最初の三音の動きを借用したことが事実だとしたら、その後に展開し続ける交響曲全体との対照に心が躍る。借用から始まり、そこを抜け出して、それまで作った2つの交響曲とはちがう、ベートーヴェンの世界が数十分続くのだ。
ベートーヴェンは、英雄交響曲に着手する直前に、遺書を書いて自殺を企てた。音楽家にとり致命的な聴覚障害が進行し、精神的な動揺があったから、と言われている。そのような絶望の淵から抜け切ったあとで書かれたということが、この曲をさらに深く大きくした、ということも言われている。そのような状況にあって、出だしの旋律を借用したことを、どう考えたらよいのか。
もともと自分にないものを自分のものとしたい、という気持ち、そして今の自分に満足せず、もっと自分を広げたい、という意欲。そのようなことを持ち合わせていると、人がやっていることを真似してみたくなり、真似することに喜びを覚えることがある。少なくとも私はそうだった。ベートーヴェンも真似をしてみたい、と思ったのだろうか。モーツァルトと比べると、決して多作とはいえないベートーヴェンは、先輩であるモーツァルトの音楽をよく研究していた。研究しているうちに軽い気持ちで借用したくなったのだろうか。あるいは、借用する気持ちがなくても、先輩に親しみを持ってしまって、自然に旋律が浮かんできたのだろうか。いや、曲を構成する中で、展開させるための最良の旋律が、身体の奥底から浮かんだ結果、偶然似てしまったのだろうか、と思いは尽きない。
一般に、借用することは、あまり良い印象を与えない。しかし、ベートーヴェンはこの旋律から始まって、今までどこにも聴くことが出来なかった作品に仕上げた。たとえ故意に借用したとしても、そのことが決して作品を損なうことにはならない、と思うのだ。もし別の曲の似た旋律に出会ったら、借用は良くない、ということではなく、ああ面白い、と鑑賞するに十分な音楽に囲まれている幸せをかみしめていたい。ところで、フランク永井は、チゴイネルワイゼンのことをご存じだったのだろうか。ジプシーの旋律と、和製恋歌と、こちらの関係も思いは尽きない。