音のこと
ミサ曲ロ短調の冒頭
2014年10月10日
テレビの放送でバッハ作曲ミサ曲ロ短調を聴いた。アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏。残念ながらキリエの冒頭は聴き逃した。ロ短調は、カール・リヒターが振ったLPを若い頃、長らく聴いていた。冒頭部分には、主よ、と呼びかけて、祈る、というキリエの言葉のうちに、生まれたが故に味わう悲しみを受け止めて欲しい、ということが表わされている。リヒターで聴くその部分は、合唱している団員全員が指揮棒を見つめ、譜面を声にする、という音楽を進める当たり前の作業が、まるで私の真ん前で繰り広げられるように迫ってくる。声が私の身体の一部をえぐり取るがごとくに。
昔私は、キリエの冒頭部分を繰り返し聴いた。若かったから、たとえ身体をえぐり取られるようになったとしても、何度でも聴くことができたのだろうと今は思う。若さは、本質にズバリと入ることのできる力がある。今なら畏れを抱いてしまうため、繰り返し聴くことを私の耳が受け付けない。
そんなことを思いながら、アーノンクールが進める演奏を聴いていた。歌い手たちの表情をとらえた映像が何度も登場する。聴きながらその表情を見ているうちに、聴き逃した冒頭の部分が聴こえた気がした。それが映像の力なのか、あるいはリヒターにない音楽だからなのか、それはわからない。
その放送は夜だったのだが、いざ寝ようと思っても寝られなくなってしまった。どうも、久しぶりにロ短調を聴いて、何かをやろうという気持ちにスイッチが入ってしまったようなのだ。昔に見聞したことを思い出すことは、回想にふけるだけではなく、今を生きるために要る、と思うのだが、生きるリズムは壊さないようにしよう、とも思った。