音のこと
ブレハッチ演奏会
2017年10月09日
連休の最終日、ラファウ・ブレハッチ演奏会に行った。ブレハッチは、ショパン・コンクールで優勝した、世界的に有名なピアニストである。演目は、バッハの4つのデュエット、ベートーベンのロンド、ピアノ・ソナタ第3番を前半に、休憩後の後半は、ショパンの幻想曲、ノクターン第14番、ピアノ・ソナタ第2番というものだった。
少し前に、CDで聴いたバッハの演奏は、これまで聴いたことのなかった装飾音を多用していたと思った。実際に音を耳にしたら、装飾音のように聞こえるが如くの流れをもち、音もリズムも完ぺきに統制された音楽であった。バッハもショパンも、同じ人の同じ手による演奏ということがわかった。
ベートーベンのソナタは、初期の頃から、スフォルツァンド(特に強い)を散りばめていて、ある程度聴き続けると、この曲はベートーベンだということがわかる。このスフォルツァンドをどう弾くのかを楽しみにしながら気持ちを構えていた。果たして、そこには一糸乱れぬ鳴り方が常に在った。曲が進むうち、このように弾くだろうな、という音が期待通りに鳴る、という具合だ。
また、弱音が続く部分でも、右手と左手とが全く破綻をきたさずに、どれだけ速くなっても、ひと塊の音の群れが、次々に紡ぎ出される。ショパンは、私のような音楽愛好家が弾くと自由度が大きくて、いくつもの表現が出来ると思いがちである。しかし、ブレハッチの手にかかると、その卓越した技巧が、そのような余地を残さない。ショパンのピアノ・ソナタ第2番の終楽章は、指の先をコントロールしきって、息もつかせぬまま終わった。
アンコールの2曲目は、ショパンの前奏曲第7番。とても短い曲で、まるで、これで終わりだよ、ということを強制的に知らされたようだった。
ここまで一人の人間に制御された音楽は、なかなか聴けるものではない。しかし、バッハから始まり、ベートーベンに移ったところで、どのように音楽を作っていくのかが、残念ながら予想できてしまった。ショパンも、である。2曲目のアンコールで、気持ちをちょんぎられたまま、会場をあとにした。
私が学生であった1974年、やはりショパン・コンクールで優勝したマウリツィオ・ポリーニが初来日し、演奏を聴いたことを思い出した。あの時のポリーニは、何かに取り付かれたようにアンコールに何度も応えて、何とショパンのバラード第1番で締めくくったのだ。鳴り止まないのではないかと思えた拍手もいつしか終わって会場を出たとき、小雨が降っていた。濡れることをいとわずに、熱された身体のまま家路についた。
完ぺきさにおいて、ブレハッチとポリーニとは比べるまでもない。両者とも破綻をきたすということとは無縁の演奏家である。何の違いがあって、ポリーニは私の耳に突き刺さり、ブレハッチはそうならなかったのか。まさか、30代の彼が、音楽とはこんなものさ、と達観したわけではないだろう。しかし、指先の神経を統御する能力が高くなればなるほど、創造されるのではなく、画一化されるのではないか、と恐れをなしたひと時でもあった。