小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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診療の中で

往診

2016年04月13日

この2、3年、NHK朝ドラを楽しんでいる。最近終わったドラマの舞台は明治時代、不治の病と宣告されたヒロインの夫を医師が患家に往診して看取る場面があった。朝ドラに限らず、時代がかったドラマでは、医師役は往診することが多いように思う。おそらく、実状もそうだったのだろう。

時代が移り、私が子どもであった昭和30年前後、このころ父は確かによく往診をしていた。家の上がり框に往診鞄をドサッと置く父の姿は、我が家の日常風景のうちの一つだった。それから幾星霜かが経ち、私が開業したのが今から30年前である。その当時も往診が多かった。父との2人仕事、午後の外来は父に任せて、私は午後のほとんどの時間を往診に費やした。往診が終わると、冬の寒い時は、外は真っ暗になっていた。

往診に出かけて患家で過ごすひと時は、外来での診療とはちがった趣がある。そこでは、家のおおよその間取りがわかり、何より患者さんの生活の場を見ることができる。往診することは、生活習慣が病気の進展に関わることがあるとしたら、それを推理しやすくなる利点があると思うのである。そして、それがひいては、生活指導の中身が具体化することにつながる。診察室での生活指導は、一般論の域を出ることがあまりないのに、往診をすると、より実態に沿ってお話しができる。

さて、いつの世も年を経るにつれて、仕事もスタイルが変わる。開業してから10年くらい経ったころだろうか、老人保健施設などが出来て、往診は激減した。今では、数えるほどの件数となり、外来をあまり空けなくて済むようになった。つまり、心身とも楽になったのだ。そう思っていたら、昔の横浜の病院時代の同僚から、往診専門医になったと書かれた年賀状をもらった。そういえば、都会にいる知人や親戚も、親を往診専門医に看取ってもらったらしい。

私の住む地域では、まだ往診専門医がいることを聞かない。しかし、コメディカルが連携して、地域包括支援システムが稼働している現在、そのような医師が当地にも出てくるのだろう。何だか、明治の世以来、普通に在ったと思われる往診が、組織化されて別ものになる兆しを感じる。往診は、前述したように、外来を空けなければならない、という医師にはつらいストレスがある。外来を持たない往診専門医は、心置きなく仕事ができるのではないだろうか。

朝ドラを見ていて、父の診察風景を思い出した。ヒロインの義父がまだ若かった昔、ロケで当地にやって来て病気を患い、父が診察したらしい。父が診た役者はもう1人、やはりロケに来て病気になり、こちらは宿まで往診したそうだ。往診した時に、映画監督は、役者の症状が悪化するかも知れないから、翌日からロケの間付き添ってほしいと、やや慇懃無礼に父に頼んだようだ。監督は、世界の、と形容されていた有名人だし、役者は、勲章を授与された御仁である。しかし、父は、日々診察に来る患者さんを差し置いて、ロケにつき合うことなど出来ないと、一喝したそうだ。このとき、父はだいぶ腹を立てたと、後年母から聞いた。

有名人でも阿(おもね)ることのなかった父の挿話のうちの一つである。しかし、これは私同様、父も常々外来を空けることのストレスを感じていたからかも知れないと、今は想像している。

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肺癌を診て

2015年03月21日

開業医の間口の広さについては、言うまでもない。昨年末より、故あってカルテ整理をしていて、多くの疾病に出会ったことを改めて見定めたところである。

ある患者さんのことである。咳が止まらないと訴えて検査した結果、肺癌を疑った。病院での精密検査と治療を勧めていたとき、自ら癌だと悟られ、病院には行かず家で余生を送るから最期まで診て欲しい、と話された。何ヶ月かの療養の末、臨終を迎えた。元々物静かな方で、 あまり身体のことを訴えるほうではなかった。家族は、そのような患者さんのことを知り尽くしているからか、往診中でも細やかなお世話をしていた。そんな家族の一人が患者さんの上体を起こし、患者さんはその腕の中で息を引き取った。

別の患者さんのことである。やはり咳が止まらず、胸の痛みを訴えていた。この方も肺癌を疑い、精密検査の必要性を話して、病院を紹介した。病院で検査の結果が出て、覚悟されたようだ。私のところにわざわざ来られ、肺癌だった、仕方がないと思う、これからは好きなように生活する、と話された。二人の方が、一期の終わりの過ごし方を自らはっきりとそれぞれに決められた。

さて、私が小学生の頃、隣家がニワトリを飼っていた。その鳴き声を傍らに遊んでいたある日、有馬の山の端に夕日が沈みかけた。夕焼けとニワトリの声。その光景は、死が目前にあるかのように想わせた。ああ、死ぬのはいやだと思った。初めて死を意識し、おぼろげながら生きることの畏れを抱いた、という私の原風景である。それから、死は医師になるまで実際に現れなかった。

死と向き合ったお二人に、残された私は、生きることに向き合わされる。とはいっても、生きるとは?という命題に対する回答を、先送りしている自分を確認するだけだ。生を限られることが答えを出すのだろうと考えつつ、結局は日常の喧騒に身を置いてしまう。

遠いようで近い死。職業柄、たびたび意識させられることを感謝すべきなのだろうなと思う。

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あるインフルエンザ風景から

2015年01月16日

今年になって、のどの痛みと37.3℃の微熱とを訴えた大人の患者さんが来院した。患者さんは診察室に入るなり以下の話を始めた。知人が37.8℃の微熱にもかかわらず、インフルエンザのテストをしたところ、陽性だった、自分は更に低い熱だが、念のためテストして欲しい、と。患者さんの希望通りテストしたところ、A型インフルエンザだった。患者さんは、普通にのどの風邪をひいたと自己診断してやって来た。微熱であるから自覚症状も軽く、まさか、の診断だったようだ。

インフルエンザを鼻腔のぬぐい液で検査できるようになってから久しい。この患者さんや、その知人に限らず、過去に37℃台の熱しかなくても、テストで陽性を示した患者さんはいた。テストのおかげで、インフルエンザは高熱を出す病気である、というだけではなさそうだ、と考え直させられている。

改めて教科書を開いてみると、風邪の多くは、発症後の経過がゆるやかで発熱も軽度であると書かれている。これに対して、インフルエンザは、悪寒と39-39.5℃に達する発熱が突然始まると書かれている。教科書的には、やはりインフルエンザ=高熱、ということになるのだが、医院に普通の風邪症状で来られて、インフルエンザテストが陽性の人は、どのように診断したらいいのだろうか。

検査には false positive といって、病気ではないのに病気と判定してしまい、誤った診断をしてしまうことがある。微熱の患者さんは、インフルエンザだったのか、あるいは、false positive だったのか、ということは検討しなければならない。もちろん、私には出来ないことだが。

微熱の患者さんが false positive だったかどうかはともかく、テストが出来るようになってから、私の経験上、インフルエンザの症状は多彩で、インフルエンザ=高熱、ということだけではなくなった。これまで、インフルエンザを始めとした感染症を、人類の英知や生活環境を改善することなどで克服してきた。そこから学ばなければならないことは、ワクチンを打つか打たないか等を、日常生活にどう取り入れたらいいか、ということではないかと思っている。スペイン風邪が流行した大正時代と今とでは、私たちの感染症に対する身体の備えがちがっているのではないか、と思うのである。もちろん、病気をあなどってはいけないが、昔のように過度に恐れることなかれ、とも思うのである。

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感染症の変遷

2014年10月20日

10月より法律改正により、水痘ワクチンが定期接種に追加されることとなった。今後は、3歳までの子どもが2回接種することになる。すでにアメリカではワクチンを始めていて、水痘患者が激減したようだ。日本でも、定期接種することによって、水痘に罹ることを減らそうという期待がある。

さて、私は臨床の現場で、最近水痘に罹る子どもが減ったと感じていた。私の感覚だけではなく、何かのニュースでも減っていることを知った。そこで、それが本当なのかどうか、国立感染症研究所のHPで、罹患報告数を調べてみた。

グラフにあるように、やはり、この13年の間に徐々に減っていて、昨年(感染症サーベイランスシステムの速報値)は、2000年の罹患者数に比べて、実に約10万人もの減りようである。水痘と同じ五類に区分けされている他の感染症には、このような傾向はなく、いま深刻な問題である少子化の影響ではなさそうだ。

感染症は、時代とともに変遷してきた。結核、麻疹、ポリオ、日本脳炎などの疾患は、激減していて、10数年前に当院で麻疹を報告したときには、自治体から患者さんの様子を聞かせて欲しい、と連絡があったほどである。いくつかの感染症を克服してきた要因のうち、生活環境がよくなったことは、第一に挙げられると思っている。水質の浄化、ほとんどの家にある冷暖房設備など、この数十年で大きな変化があり、私たちはその恩恵を受けてきた。その結果として、身体の免疫機能にも変化を及ぼし、いくつもの禍福を享受してきたと思われる。花粉症に罹る人が増えたことは、このことと無関係ではないだろう。一方において、日本脳炎のワクチンを接種していないにもかかわらず、自然に抗体が作られている、ということを聞いた。また、麻疹は戦後に年間2万人が亡くなる病気だったが、ワクチンが開発されたときには、すでに100人程度に減っていた。麻疹による死亡者数が減ったことは、ワクチンだけによることではない、ということを示している。

このように、原因は何であれ感染症は変遷していることがわかる。水痘に話を戻すが、罹患者数が減りつつあるなかで、10月よりワクチンが定期接種になったことをどう考えるかが目下の私の課題である。自然減少している水痘に、わざわざワクチンを接種する必要があるだろうか。また、水痘に罹患したことが原因で、後年高齢となったときに、帯状疱疹を患うことがある。人によっては、長く続く神経痛に悩まされる。この悩みは、ワクチンで解消されるのだろうか。これまで、水痘ワクチンの有効率は、あまり良くなかった。2回接種することで、有効率がどこまで上がるのだろうか等など、思いは尽きない。定期接種となったから、それに倣って皆始めよう、ということではなく、一人一人がいくつもの情報を得ながら、ワクチンを打つ、ということを考えて欲しい、と思っている。

ところで、西アフリカで猛威をふるっているエボラ出血熱。すでに何千人も亡くなっていて、欧米でも罹った人がいる。今後どのように拡がっていくのか、大変心配なことである。しかし、欧米と西アフリカとでは、生活環境が全くと言ってもいいほど違っている。欧米の生活環境では、西アフリカほど亡くなる人がいないのではないかと思うのだが、どうか、そうあってほしいと念じている。

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産業医研修会余話

2014年09月23日

先だって、都内で開かれた産業医研修会を受講した。今回は、私の関心事だった職場の過重労働対策とメンタルヘルス対策が講義内容に含まれていた。10時から夕方までの長丁場に、300人くらいが参加していた。午前の部が終わって昼休みとなり、食事をとるため外に出たときのことである。一昔前なら、街を少し探せば、そば屋や定食屋があったのだが、近年そのような気の利いたお店はなかなか見つからない。どうしたものか、と歩いていたら、すぐ近くでコンビニエンスストアを眼にしたから、そこでお昼を買おうと思い、お店に入った。お店には同じ考えの受講者が押し寄せていて、奥のレジの前に大勢並ぶこととなった。

2つあるレジのうちの出口側をふと見たら、受講者の一人と思しき私よりやや年配の人が、品物を計算している人の後ろに並んでいる。店員は、何やらしゃべっていたが、その人は一向にその場を動こうとしない。その場の雰囲気から、列の後ろに並んでください、と店員は言ったけれど、その人は理解できないのだろうと想像できた。

並んでいた私にやっと順番がきて、件の店員とは別の店員のところで買上げとなった。その際に、レジを打ちながら何やらしゃべってきた。私は近くにいたにもかかわらず、聞き取れなかった。それでも、ご飯を温めますか?と聞いてきたととっさに判断して、はい、と答えたところ、案の定、電子レンジに品物を入れてくれた。出口側のレジにいたその人は、あとで並んだと思われるから時間のロスがあっただろう。私は、たまたま判断よくスムーズに事が運んだ。しかし、この2つのことに、言いようのない違和感を抱いた。

コンビニで働く若者と、私のような60代の人間とに世代間ギャップがあることは言うまでもない。ギャップにはいろんな要因があると思うが、年とともに衰える身体に係ることが大きいのではないかと思う。特に、60代ともなると聴力が下がる。若者に早口でしゃべられると、特に子音が聞き取りにくくなる。出口側にいた人も、何を言われたのかが聞き取れなかったのだろうと想像する。しかし、コンビニを利用する多数の若者と店員との間では、私が遭遇したようなことは、まず起きないだろう。

そんなコンビニでは、店員たちが「ありがとうございました、またどうぞ」という言葉を利用客の年齢を問わず判で押したように発する。そして、レジを離れる間もなく、次の客に「こんにちは、いらっしゃいませ」の言葉、失礼だが、機械がしゃべっているような光景である。

聴力の低下した年配客を始めとして、誰彼かまわず同じ対応をすることについて、ある社会学者は、人に関心がないからだろう、と分析していた。そして、群れて遊ぶ幼稚園児は、決して共同作業をしているわけではなく、実はそれぞれが勝手に遊んでいる、そんな幼稚園児がそのまま大人になったのではないか、とも分析していた。然もありなん。私たちを多数の若者と同じように接してくれることは、平等感こそあるものの、逆にますます世代間ギャップが拡がってしまうのではないかと恐れる。

午後からの実地研修で、どのような点を留意して過重労働対策をしますか、という講師の質問に対して、フロアの医師が、一般論ではなく個々の業務内容を徹底分析することが肝心だ、と答えていた。研修会では、一人一人に合った対策をすることを教えられた。そして、コンビニでは、お客は皆ちがうということを知ることが肝要であることを改めて感じたと同時に、そのことを私たち60代は、伝えるという課題があると思った。もう年だから、と言うことなかれ。徐々に衰える聴力を自覚することからでも、ある種の社会参加は出来る、という心境である。

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荻野ぎん子女史

2014年05月31日

07年に医学部を卒業した姪の話によると、姪のクラスでは女子の卒業生が男子のそれを上回っていたそうだ。私が学生の時には女子がクラスに6名いただけで、上と下の学年も同じくらいの数だった。女子の数がいつの頃から増えてきたのだろうか。女子がクラスの半数を超えるなど、この約30年で隔世の感がある。いや、明治18年に女子として初めて医師国家試験に合格した荻野ぎん子女史が医師となって、120年以上が経つが、女史には想像もつかない今の時世だろう。

荻野ぎん子女史の一生については、渡辺淳一の小説である「花埋み」に詳しい。また、女史が再婚後に渡った北海道の町の町史などにも、詳しい年譜が紹介されていて、これらの小説や町史には、明治維新後、数年しか経っていない時代に女史が医学を志し、医者となるまでには幾たびもの困難を伴ったことが描かれている。

それらの記録によると、女史が医学を志した大きな理由は、結婚後夫から淋疾に感染させられ、その治療を受ける際、女性にとって耐え難い羞恥と屈辱を体験し、同じ病に苦しむ同性の人々には同じ思いをさせてはならない、という強い決意を抱くようになったから、とある。

当時は、女子が学問をすること自体が奇異の眼で見られたようだ。しかも、医者になることは、さらに特別なことであったため、親や兄姉などから強く反対された中での上京だった。ところが医学校は女子の入学を認めず、まず東京女子師範で勉学をするという回り道をすることになった。ここで女史は抜群の成績を残したが、そのことを以てしてもなかなか許可されず、医学界の有力者を介して医学校に入学の運びとなったのは、上京して6年も経った28歳のときである。

入学後も女子であるがゆえの困難は続いた。さらに医学校を卒業して、医術開業試験(医師国家試験)を受けるために願書を提出しても、女子であることを理由に何度も却下されたようだ。勉学を続けていた間に得た知己などの計らいで、やっと政府公許の女医第1号となったが、すでに卒業後3年経っていた。

私の手元には偶然であるが、荻野ぎん子女史にインタビューした記事がある。これは、女学雑誌231号に掲載されていて、女史が開業して5年経った39歳の年、明治23年に出版されたものである。ここで、その一部を紹介する。

記者は最初に「荻野ぎん子女史は日本開業女医の率先者なり、一日閑を得て女史を下谷西黒門町二十二番地の居に訪ふ」と書き始めている。そして女医としての必要性はどこにあるかをたずねているのだが、それに対し女史は「婦人病といふものは十に七八は身体の下部に関する病なるに一般婦人の性質として或る局部を他に見らるる事は男子よりも深く之れを厭ひ憚るものなり(略)此際女医なるものある時は幾分か厭ひ憚るの念を減ずるを以て容易く治を受くるに至るべし」と答えている。いくつかの資料に書かれているように、やはり、淋疾の治療を受けた際の屈辱は、相当なものだったのだろう。

また、引用した個所の外に、子どもを診察するときには男医より女医の方が怖がられないということなども語っているが、医者としての仕事云々の前に、男であるか女であるかが問われる時代には、女であることの必要性をまずもって、語らなければならなかったのであろう。そして、そのことが、今の時代であれば、そのまま普通に現してもよい女性性というものを抑え、本来ならば現れてよいはずの、いわゆるキャリアウーマンの凄みのようなものまでも抑えてしまったのかも知れない。

たまたま手にしたインタビュー記事は、女医第1号というには、あまりにも普通のものだった。内容はともかく、雑誌社としては、先覚者としての女史を話題の人として取り上げたかった、ということは想像に難くない。いずれにしろ、今となってはこの記事は女史を知るための数少ない資料のうちの一つであろう。

女史はこの後、14歳年下の青年と恋愛関係となり再婚した。後年東京の医院を閉じて、夫を追って北海道に渡り、開拓に精魂を傾けた。そのような後半生も医者になるまでの道のり同様、波瀾に満ちていたことと想像される。

件の姪は、医師としての研鑽を積んでいるようだ。女医が珍しくなくなった現在では、姪に女史のような話題性があったとしても、雑誌社などに取り上げられないことだけは確かである。

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インフルエンザの流行様式

2014年03月31日

3月末の朝日新聞に、インフルエンザの流行が春になっても収まらない、3月末になっても、前年同期の3倍近い患者数だ、と書かれていた。これは、全国にある感染症定点観測地点での集積結果である。今期は「だらだら流行」で、今後も注意を要する、という感染研感染症疫学センター室長のコメントも載っていた。

当院は、小児科感染症定点観測地点になっていて、インフルエンザも他の感染症同様に報告することになっている。当地では、インフルエンザはもう終息しそうな様子である。しかし、私は年初に、「今年の仕事始めに胃腸風邪にかかった一人一人を診ていて、どうも、インフルエンザにかかる人が2009年以前と同じような増え方をするのではないか、という予感がした。」と記した。どうも、その予感が当たったようだ。

当院で記録した小児のインフルエンザに罹患した1月から3月までの3か月間の患者数を過去10年さかのぼってみた。10年前の数を基準にすると、0.8から1.6倍に収まっている。今年は1.0倍である。ところが、新型インフルエンザが流行した翌年から昨年までは、各々0.3、0.6、1.2、0.08、と2012年を別にすると、かなり減っている。

私は、2009年に流行した新型インフルエンザが、それまでの感染様式を壊してしまったのではないか、と想像していた。当院での記録を見た限りでは、そのことが裏付けられるのではないか、と思うのだ。しかし、2012年には、通常通りの流行があったことがわかった。そして、新型インフルエンザは全国にまん延したのだし、全国ではどうなのか。やはり、感染様式が変わってしまったというからには、もっと大がかりにデータを解析することが要るだろう。

それはともかく、1月4日には、まだインフルエンザが発症していないのに、胃腸風邪にかかる、そのかかり方から、インフルエンザの流行を予測できた勘を大切にしたい、と思っている。

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アザ、ホクロ

2014年02月27日

時々、外来に子どもを連れてやって来る親から、アザやホクロを取ることが出来ないか、と相談される。それも、外から見えて、しかも大きなものではなく、胸や背中、あるいは四肢の目立たないところにあるものだ。取りたい理由は、子どもが大きくなったら、これがあることでいじめられるのではないかということだった。私のこたえはただ一つ、子どもの個性を表わすアクセントではないの?そのままにしておいたらどう?ということ。

そういえば、運動会で速い子と遅い子とを決めないということを聞いた。高校生がピアスをつけることや髪を染めることを指導されている。昔、私が中学生の頃、生徒指導していた先生がズボンの裾幅を測っていた。いたるところに、右へならえ、の「合唱」がある。このように、子どもを平均化させていくその先には何があるのだろう。

自戒の念を込めていうのだが、アザやホクロを許容する社会を、子どもを前にした大人が作らなければならないのではないかしら。個人を尊重することを学ぶのは、むしろ大人ではないか、と思うことしばしば。河合隼雄さんは、大人が既成の知識を注入することに熱心になると、子どもの個性を壊す、と述べている。子どもを育てることが大事なのは言うまでもないが、むしろ「大人育て」が喫緊の要事ではないかと思うこの頃である。

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2014年仕事始め

2014年01月05日

本年も三が日明けに仕事を始めた。発熱、嘔吐、下痢を訴える胃腸風邪にかかった方が多かった。一方、鼻、のどの風邪にかかった患者さんのうちの何人かに対して、インフルエンザのテストをしたが、全員反応が見られなかった。当地では、インフルエンザの流行はまだのようである。目下、胃腸風邪が感染症の主流だ。

長く開業医を続けていて、この時期は胃腸風邪がはやり、少し経って下火になったくらいにインフルエンザにとって替わる、という感染様式があることをずっと経験してきた。この移り変わりは、ある年を境にして、それまでの20年ほど経験したことと異なってしまった。

ある年、つまり2009年にカナダから帰国した高校生たちが最初に感染を確認された新型インフルエンザが日本中にまん延した。当院でも、この年の夏にかかった患者さんを診た。この年まで、インフルエンザはある一定の季節、すなわち冬に流行するものとされていて、教科書にもそう書かれている。ところが、新型インフルエンザがはやったのは、5月からで、当地でも夏以降、年末まで散発的にみられた。

このことがあってから、今の季節に在った胃腸風邪からインフルエンザへ、という様式が崩れてしまったように思う。胃腸風邪に感染する人がいて、いつの間にかインフルエンザにかかる人が増えてきて、しかも胃腸風邪がいつまでも続く、そしてインフルエンザはそれまでのような大流行はしない。まるでウイルスの棲み分けがちがってしまった、と思えるのだ。小学校や中学校で学級閉鎖することも少なくなっていたのではないだろうか。

ところが、今年の仕事始めに胃腸風邪にかかった一人一人を診ていて、どうも、インフルエンザにかかる人が2009年以前と同じような増え方をするのではないか、という予感がした。適当な言葉が見当たらないのだが、それぞれがしっかりとかかっている。仕事しながら、5年前までみられた患者さんの具合を思い出した。

ただこれだけで、流行を予想することは科学的ではない。長年培った感のようなものだから、殊更声を大きくすることではない。むしろ、はやらない方がいいに決まっているので、感が当たらないことを願っているのだが、何とも気になる仕事始めの一日だった。

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人に関心を持つ

2014年01月02日

攻守ところを変える機会があった。仕事上同業者に辛くなるのは仕方ないとして、その辛口に近い話である。

大きな医療機関の受付にいたときのことである。係りの椅子が空席だったから、そこにいたら受け付けてくれるだろうと思って待っていた。その右にも左にも職員が数名いた。業務をやっている人、やっていなくて待機している人のふた色だ。その待機している人と、何度か目が合ったにもかかわらず、私には何の反応もなかった。向こうの立場からは、私が待っている場所は、業務外なのだろう。その結果、ずい分と待った。

受付職員の業務は、持ち場はあるにしても、やってくる患者が対象ということからみたら、すべて同じだ。それは、こちらの見方ではあるが、ひと言、待ってください、という言葉が欲しかったところだ。これは、個人をなじるのではない。病気にかかわるからには、人に関心を示すことが要件である、と思うのだ。

そういえば、ここでも地域のあり方が変わり、地域で子育てする力が弱くなった。小さな子に、ただ、声かけすることで、子どもがちょっとした存在感をもつと思うのだが、受付での私への無関心から、そんなことを思った。

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