時世の粧い
弔辞に代えて
2022年10月09日
友は、私が大学に入学して所属したワンダーフォーゲル部にいた。一学年下の私に同じ匂いを嗅ぎ分けたのか、何かと声掛けしてくれた。あるときは、家に来ないかと誘ってくれて、夜を徹して語り明かした。
友は、読書家だったことはまちがいない。部屋の書棚に長編ものが多くあった。本に囲まれた中、音楽好きの私に釣られて、音楽談義もした。チャイコフスキー、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」第一楽章。これは悲歌的な楽章と題されていて、奏者がアクセントをつけて強く演じる部分があり、そこを何度も口ずさんでいた。私の前でも、感情の高ぶりを隠さず、腕を振り、涙しながら。
友は、ある部活の山行で、雨でずぶ濡れになって、消耗したままテントを張っていた。そこで偶然つけたラジオで、シャルル・アズナヴールが「イザベル」を歌っていたのを耳にしたという。恋人を震えるような声で何度も呼び掛ける、その歌と疲れ果てた自分との落差を嘆き、逆に歌に惹き込まれたことを何度か口にした。
友は、実家が経営する寿司屋に、私を連れて行ってくれた。ただ酒、ただ飯を何度いただいたことか。御馳走になって別れてから、電話をよくもらった。私は妹と同居していて、電話をひいていたから、友は家族を離れて公衆電話からかけてきたのである。当時、都内は10円で無制限にかけられた。1時間、2時間と、暑い日も寒い日も話し込んだ。その後、通話料金に時間制限ができたことを恨めしく思ったものだ。そして、ある休日、京都まで旅行し、彼の苦く、しかも甘い思い出を蘇らせることにつき合わされた。総じて、何をしたいのか、何にこだわるのか、をいつも披露してくれていたように思う。
友は、学生結婚した。私は当然のように新婚家庭に押しかけて泊まった。パートナーに疎んじられたものの、さしたることもないように私には振る舞ってくれた。社会人になってからは、さすがに縁遠くなったのだが、友が立ち上げた病院に誘われて、しばらくの間勤務し、院長のあるべき姿、病院の使命など、本来の仕事を離れて時間を割いたのは、ついこの間のことのようである。
その友が急死した。コロナ禍もあるなかで、最近は電話でしか話ができなかった。このところは執筆活動をしていることを、何度となく聞いた。実際に本を複数冊送ってくれて、これからもまだ書くことがあると言っていた。さらに先の計画もあり、彼ならではの老後を描いていた。志半ばとなったことを無念であろうと思う。
友を偲んで、チャイコフスキーを聴く。シャルル・アズナヴールを聴く。繊細さと大胆さ、弱さや無神経さ、彼が持ち合わせるいくつもの顔に、私は惹かれ、突き放しもした。生きていればこそ、という言葉が白々しく感じるいま、失ったつらさがしばらく消えそうにない。
悠々自適の生活とは
2022年07月02日
久々に長距離ドライブしたある日のこと、眼が開けにくくなってきたため、パーキングに寄って目薬をさした。このところ、点眼は日課となっている。しかし、これまでのようにドライブにつきものだったトイレ休憩とは別に、点眼休憩することになるなど、思いもよらないことだった。そういえば、同年代の知人が、ものを探したり、食後薬を飲むのに時間を取られたりして、年取ると忙しいと言っていたことを思い出した。
確かに忙しい。それをよくよく考えてみると、身の周りのことで時間を割かれることが多いのである。そう、些細なことが積み重なるから忙しいのだ。たとえば、足腰の痛みと衰えを感じるから踏み台を利用してトレーニングをする。また、ピアノを弾くにも、何本かの指が痛いので、弾く前にマッサージをする。出かけるには遠近両用メガネにつけかえなければならない。それだけならまだしも、メガネをつけかえ忘れてまた家に戻ることもある。そして、知人と同じく、探し物に時間をとられる等など、かつてなかったことを日常行わざるを得なくなった。私は、人間に約60兆個あるといわれる細胞の経年変化による減数が気になっていた。そのことが年とともに積み重なる些細なことに関わっているのかも知れないが、複雑な生き物の変化を数だけで無論説明は出来ない。いずれにしても、これらの変化は、ある日突然自覚するのではなく、そういえばこんなことはなかったという類の自覚である。
診療中、年配の患者さんがよく発する言葉は、年だ、ということ。すなわち、眼が悪くなったから年だ、腰痛が治りにくいのは年だ、というように。総じて、これまでにない身体の不調を覚えるのであって、私はそういうとき、年を取るという人生初めての経験ですね、と言うと、患者さんによっては、なるほど、と納得をする。
少し前に、テレビドラマを見ていた時、50がらみの役をしていた女の人が、若い女の人から、年を取ったこと故の所作をなじられた。その時、あなたもいつかは私のような年齢になるの、と諭していた場面があった。誰しも年を取ることは平等に訪れる。だから、いま眼が開きにくい、腰が痛いなどの症状は、何もわが身に特異的に襲ってきたことではないのである。だからといって、仲間意識を持つことではなく、いまの身体を生活にどう適応させるか、が目下の関心事である。
いまこうして古希を過ぎて思うに、昔は、年配の患者さんに失礼をした。自分が若かったから、年を重ねることに、思いが至らなかったからである。ドラマに登場した若い女の人のように、なじりはしないけれど、共感出来ない点で似たようなものであった。しかし、いま思いが至ったところで、医師としての助言より、己の経験を語ることが多いことに意外な気がしている。いや、経験知は大きいことを改めて思う。それにしても、この歳になっても未だ悠々自適の生活とは無縁である。老後の代名詞のように思っていたのだが。
私が忙しいと感じるそのそばで、もうすぐ98歳になる母が、メガネがないと、これも日課のように探している。それを当然のように忙しくしていることに、貫禄があると妙に感心するこの頃である。
科学といえないまでも
2022年04月01日
今は昔、阪神・淡路大震災が発生した2日前の深夜のことである。私が右側臥位に寝ていたところ、その私の枕の顔側を誰かが踏んづけて、続いて背中側を踏んづけた、と思った。確かに枕の左右が順に沈み、頭が沈むに任せて左、右に傾いた、と思ったのである。とっさに何者かが侵入したと判断し、がばっと飛び起きた。しかし、周りには誰もいない。もしや隣の部屋で寝ている長女が襲われているのではないかと心配になり、覗いてみたら、長女はすやすやと眠っていた。何のことだったのだろう、と思いながらもう一度寝ようとしたその時、電話が鳴った。祖母が亡くなったという知らせであった。
亡くなる2日前、叔父から元気にしていた祖母が急に倒れたと、知らせをもらった。すぐさま、家に駆けつけて呼びかけたところ、頷きはするものの、自力で身体を動かすことができなかった。叔父と相談のうえ、救急搬送を要請して入院治療をお願いした。そして、2日後の深夜、主治医から電話をもらったのである。経過が急だったため診断できないまま死亡し、申し訳ないとのことだった。たった2日の診察では、病名がわからなかったのは仕方ないだろうと思った。
連絡を受けて、慌ただしく病院まで車を走らせる中、枕を踏んだのは、祖母のたましいだったのでは、と思った。祖母には17人孫がいるが、亡くなる2日前に会い、最期に言葉を交わしたのは私だけであったため、私のところに知らせに来たのだろうと思った。鳴った電話は偶然にしても、あまりにタイムリーであったため、違和感なくたましいのことが浮かんだ。
生前の祖母については、たくさんの思い出がある。小学生の時、祖母の実家がある山間部の町に連れて行ってもらい、川で遊ぶだけではなく、時代劇の映画を見せてもらった。また、私がまだ学生でいるとき、上京して私が寂しくないようにと犬の玩具を持ってきてくれた。その犬は、一人暮らしの学生生活をずい分と慰めてくれて、いまも部屋に座っている。私の住まいが変わったときには、新たな管理人に挨拶をしに来てくれた。当時70歳を超えていたのに、駅から歩き、東京の環七にかかる陸橋を上って降りて、管理人のところに足を運んでくれたのである。祖母は食べ物を扱う仕事に従事していたせいもあり、私に対して、手ほど清潔にもなるし、反対に不潔になるものはないと、手洗いの励行を幼い時から教えてくれた。いま私が外出から帰ると必ず手を洗うのは、親から教わっただけではなく、祖母も加わって作られた習慣である。まるで親のように私に気配りをしてくれたのが祖母であった。
さて、たましいといえば、河合隼雄氏の書物には、「こころも体も全体として根づいて感じられるためには、たましいとのつながりを持つ必要がある」そして、「出来事が『自分のもの』になる。つまり、たましいとの関連がついてくるのだ」などと書かれている。たましいについての記述がしばしばみられ、これらのことについて、私は、こころも体も、たましいがあるからこそ有機的に動いてバランスをとる、と解釈した。河合氏のこれらの記述は、祖母のたましいを思い起こさせた。そして、たましいのことについて考えているうちに、たましいは身の周りに在るだけではなく、そもそも生者のうちにも在るような気がしてきた。すなわち、たましいが空中を飛ぶというのは、言わば古典的解釈であり、本来的には、たましいという言葉を借りた心身の在り方の統御そのものだと思うようになった。もしそうだとすると、枕が沈んだのも、私のたましいが祖母の危機を察知して騒いだ結果かも知れない気がする。
祖母の死から四半世紀が経った。河合氏が言う、つながるたましいが何を意味しているのか、本当のところはよくわからないままだが、祖母だけではなく、私にもたましいが在りそうである。相変わらず、「わからぬ世界」のことであるが、いずれにせよ、枕が沈んだという、科学で説明できない何か不思議なことがあったことは事実である。
祖母からもらった犬
生きものの行方
2022年03月08日
毎年いただくシクラメン、今年は花がいつまでもぎっしりと詰まって、3ヶ月経った今でも咲き誇る勢いだ。ある日、日課にしている朝の水やりをしていたとき、詰まった花のすき間に、すでに咲き終えて、しぼんだ状態になっている花を見つけた。その花を横目に、時々庭に侵入する猫。その猫は、老いて死期を悟ると、森の中など自分の死に場所に向かうと聞いたことがある。実際は、体調が悪い時に敵に見つからないように姿を隠し、自力で傷や体調を治してから現れるそうであるが。植物も動物も、生を受け、病を得、老いて死に向かう。そして、シクラメンも猫も有機体となって地に還る。
さて、ヒトも例にもれず病んだり老いたりする。私事であるが、先日たまたま調べた血液検査の数値が高かった。予想もしなかった数値だったので慌ててしまった。程なくして専門医に相談したところ、すぐに来るようにということだった。診察の結果、もう一度同じ検査をすることとなり、果たして検査結果はほぼ同じ値であった。さらに診断を進めるために、生検という組織を取って確定することを勧められもして、紆余曲折の結果、一旦はお願いすることになった。
これまで、私は体力を維持したいために、ほぼ毎日、検査する日まで運動していた。私の年齢にしては、おそらく強い運動で、30分のあいだに200キロカロリーを消費することを目標として日々実践していた。このことが検査結果を修飾する、つまり病気でなくても運動することが数値を上げることがあることを知っていた。しかし、再検査の結果が同じような数値だったため、運動のせいではなく、実際に高いのだろうと、とにかく承服したのである。このように、この結果に悩まされる一方で、私の数値は、疾患ではなく運動によって上がったのではないかと、いわば希望的観測も抱いていて、落ち着かない日々を過ごしていた。そんなある日、机上で調べられる限りの文献にあたったところ、何と、運動刺激によって高くなった数値が、刺激をやめて一定の日数を経ると下がる、という文章に行きついたのである。検査後は運動を中止していたので、当然のことながら、私は一定の日数ののち再々検査をした。その結果、まさかの正常範囲に復したのである。生検をキャンセルしたのは言うまでもない。
約1ヶ月の間、私は高い数値を前にして右往左往したのはまちがいない。とても、猫のように森の中に向かう境地ではなかった。最近読んだ、あるジャーナリストの一生についての書物に、彼は病を得たときに平常心を保てなかったことが書かれていた。私も例外ではなく、一生は無限ではないことを知ってはいても、それが有限であることを改めてはっきりと知ることとなった。
生は有限、すなわち死に向かうという簡単ではない命題に思わず直面した。まさに前頭葉のなせる業(わざ)にヒトとしての業(ごう)を思う。その一方で、シクラメンにも猫にも在る生の営み。ヒトとして生を受けたら、そんな営みに向かう橋を「整備」しよう。それは、道理のあることだろうが、生きとし生けるものの大いなる暇つぶしなのだろうと、目下毎日の運動をやめて、ボーっと黙考している。
また相撲と野球
2021年11月28日
当世気質なら、スポーツといえばサッカーやスケートボードなどを話題にするやも知れないけれど、目下、私には相撲や野球から目を離せないことが続いている。すなわち、照ノ富士が優勝を決め、ヤクルトが日本シリーズで優勝を決めたのである。
昨日、千秋楽を前にして、全勝の照ノ富士が一敗の阿炎を倒して優勝した。この一番、立ち合いから阿炎の突き押しに劣勢となり、もはやこれまで、というくらい押し込まれた土俵際で、右腕で相手を抱え込んで逆に転がしてしまった。薄氷を踏むような勝利だと思ったのに、優勝インタビューで、「相手の勢いを止めるには、伸ばさないといけない」と言っていた。わかりにくいが、やっと勝てたわけではなかったことだけはわかった。案の定、インタビュアーも理解しにくかったらしくて聞き直していた。また、解説の元横綱稀勢の里の荒磯親方が、帰ってから勉強します、と最後に言っていた。つまり、インタビュアーも荒磯親方も、すぐにわかる話ではなかったことがうかがえる。この一番は、照ノ富士が相手をよく分析し、余裕をもって受けた結果なのだろうと、あとになって思った。そして、そう思ったと同時に、負けそうになるような追い詰められた取り口が、仕組んだ末での過程だったと気がつき、驚きもした。
さて、昨夜は勝てば日本一という試合を延長の末、ヤクルトがオリックスに僅差でものにした。最近は日本シリーズが始まる前に、恒例のように先発投手を発表していた。ところが、ヤクルトの高津監督は、発表することは規則に書かれていないので、自分は発表しないと宣言した。そのことを作戦のうちにすることで、相手チームに与えた影響は大きかったのではないだろうか。勝負の妙は、テレビ観戦していても、そう簡単にわかることではない。しかし、この一事は、勝負へのこだわりを私たちファンにも知らしめることとなった。
夜11時を超えてヤクルトが優勝を決めた。そして、マウンドに集まったチームが、監督を胴上げすると思っていたら、監督は、全員を前に講釈をし始めた。これまでは、歓喜をたたえたまま、マウンド上ですぐさま監督を胴上げするところなのに、何やら様子がちがうのである。頂点に立ち、何を皆に披露したのだろうか。そういえば、最後に抑えたマクガフ投手に、やや長い言葉をかけていた。そして、気がついたら、主力の何人もが涙を流していた。事程左様に、いつもとはちがう優勝光景を深夜遅くまで見せられた。
照ノ富士、高津監督の言葉や振る舞いに、スポーツに要する技と身体に加えた心の存在を意識させられて、テレビ観戦する更なる面白さを教わった気がする。それは、意思、創造、思考を統御する前頭葉の役割が顕在化している、すなわち、心技体のバランスがとれたとき、アスリートにその利益を還元するだけではなく、スポーツ観戦を深く味わうことになるのだと思った。
相撲も野球も年の瀬を控えて、束の間の一区切り。身体を休ませることは、頭脳を休ませることだと思う一日でもあった。
運動器官と寿命
2021年11月11日
松坂大輔と斎藤佑樹。2人は今年、プロ野球を相次いで引退した投手である。彼らは高校野球で華々しい戦績を残し、野球の申し子といっていいような存在の大きさがあった。松坂は、春・夏連覇し、夏の決勝ではノーヒット・ノーランという偉業を達成した。斎藤は、あの田中将大と決勝で投げ合って延長、引き分け再試合を制した。2人とも決勝まで連投し、松坂は、延長戦になったPL学園高校に対して、250球を投げたという。斎藤は、投球回数も投球数も、大会史上最多を記録。私はテレビ観戦しながら、この2人に限らず、高校野球で活躍する投手にかかる負担は並ではないと思ったものである。
斎藤は、大学卒業後プロ入りしてまもなく、右肩関節を損傷したと聞いた。そして、まだ33歳の若さで引退を余儀なくされた。一方松坂は、プロ入り後も大活躍し、大リーガーにもなった。しかし、30歳を前に、身体の不調があったという。しばらくして、肘の手術を受け、その後も肩の手術を受けたと聞いた。41歳まで現役を続けたとはいえ、選手としての後半生は、決して満足のいく活躍ではなかった。
これらの事実を前にして、2人は高校時代に投げ過ぎたからだ、と結論付けるのは早計だと思うものの、短かった活躍期間と華々しい戦績に因果関係があるのではないかとやはり思う。しかし、ほとんどの投手が、高校で実績を残しプロで活躍する過程で、全員が肩や肘を損傷するわけではないから、ことは単純ではない。また、スケート選手が、足関節靭帯損傷や骨軟骨損傷などを受傷したという記事を最近眼にした。さらに、運動選手ではないけれど、ピアニストが、練習で手の同じ動作を繰り返すことなどによって、脳神経疾患である局所性ジストニアを発症することがあると報告されている。局所性ジストニアを発症すると、演奏するときに手指がこわばるなどして、ピアノが弾けなくなる。目下、スポーツにも芸術にも、携わる人の寿命が懸念されることが多くなった気がする。そのためか、高校球界では、投げ過ぎの弊害が認知されて、昨年から1人の投手の1週間の投球数を500と制限したり、3連戦を回避したりと、投手を保護するルールを作ったようだ。
肘や肩を損傷した選手に対して、手術を始めとした治療で選手生活を延命できることがあるようだが、松坂と斎藤は、寿命が尽きたと思わざるを得ない。もっと早く、投げ過ぎないためのルール作りをしていたら、彼ら2人の投手人生はちがったものになったかも知れないと夢想する。そして、夢想は拡がる。かつて、「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通安全の標語があった。クルマに限らず、世界中で長いスパンで、ゆっくりと物事を考えたい。高校球児は、10年先、20年先の自分を見据えて、今の投球を考える。そうすると、如何に野球をやるか、如何に生きるか、ということが頭に浮かび、ひいては自身の人権を考えるようになるやも知れない。それは、自分の身体をさらに大切に考えるきっかけとなるだろう。また、あらゆることを生かすには、人権により根差した社会作りが要る。野球の申し子は、短命であってはならない。大人は、身体を守る教育を考えなければならない。決して、投手は消耗品ではない。人を喜ばすための道具ではもちろんない。身体を守ることが、この消費社会では、常に念頭にあるべきだ。それが社会作りだろうと思う。スポーツをする身体の中身も想った。骨や筋肉などの運動器官は、残念ながら加齢とともに衰える宿命にある。極限まで練習で酷使することと、年齢変化とに挟み撃ちになる運動器官。年齢変化をそれこそ骨身に沁みるのは、私を始めとした老年者である。変化がまだわずかの若者には、スポーツに特化した予防医学がもっともっと要るだろうなと、夢想は迷走を重ねた。
松坂と斎藤の引退会見や、最後の投球を終えて流した涙をみていたら、何をどうしていいかわからなかった。しかし、夢想を終えたいま、これから進むための方向がここにあると思いながら、彼らの今後を応援したいと思った。
相撲余話
2021年10月05日
私が相撲のテレビ中継を初めて観たのは、昭和30年初めの小学生のころ。まだ家庭にテレビが普及していなくて、「テレビがみえる〇〇屋」という宣伝文句のある食べ物屋さんに、小学生の「特権」で、何も注文せずに入りこんで観たものである。当時、若前田が横綱若乃花を倒したことが、古い記憶として残っている。それ以来、思えばまあまあ定期的に観戦してきた。
さて、先だって行われた9月場所で、気に留まったことが2つあった。先ず、宇良という力士のことである。彼は負傷して序二段まで陥落したにもかかわらず、幕内まで復帰した。同じく序二段まで落ちた力士に、復帰後は9月場所で横綱を張った照ノ富士がいる。その横綱との取り組みで、投げに屈せず、裏返しになりながら、相手のまわしにしがみついて耐えた一番があった。レスリングの経験があったからだと思わせるアクロバティックな粘りは、印象的だった。しかし、私が気に留まったのは、このことではない。相撲には、十両の取り組みが終わった中入に、幕内土俵入りがある。それは、幕内力士が前頭から大関まで、順番に一列に入場して始める儀式である。入場してから、土俵下に座っている勝負審判に、皆一礼する。その際に、ほぼ全員が礼とともに手刀を切るように振舞う一連の動作でもって土俵に上がるのだが、宇良の作法はちがった。彼は、審判に先ず一礼をして、そこに留まる。しかも、形式的な一礼ではなく、身体をひねって顔を審判に向けて行っていた。そして、一呼吸おいて、今度は手刀を切り、再び一礼しながら土俵に上がるのである。この2つに分けた作法を、別の日に見ても同じように行っていた。また、一礼と手刀を切ることを一応分けている力士がいるにはいるが、宇良のようにはっきりと分けて、しかも、審判の方に顔を正面に向ける力士はいなかった。
私は、宇良に好感を持った。ずい分と昔に、横綱柏戸が一直線に、とにかく前に突進するという、その取り口が好きだったように。片や儀式に、こなた取り口に、双方とも一途さを感じたのである。宇良の作法は、上述したように礼と土俵に上がることとを分けている。一礼して留まったことは、礼に始まり礼に終わる柔道などを連想させた。もちろん、実際の取り組みで土俵に上がったときには、礼に始まるのだが、彼が土俵入りするときの作法は、礼を際立たせる効果があると思った。また、手刀を切るということは、相撲に勝って賞金をもらう際に行うことであり、勝利の神を敬い、感謝を表す意味があるそうだ。一礼することと、手刀を切りながら土俵に上がることに、どうも意味の違いがあるようで、彼のように分けることが本来のやり方ではないだろうかと改めて思った。彼がそのことを意識して行っているのかどうか、私にはわからない。もし、意識せずに行っているとしても、気持ちの込め方が他の力士とちがうように思う。いずれにせよ、儀式は重要である。そう、土俵入りの儀式を、前に倣え、というが如くに行っているのではないようであり、ここに拘っていたら、実際の彼の相撲を出来るだけ多く観たくなった。
気に留まった2つ目。相撲放送には、取り組みを解説する元力士が正面と向こう正面にいる。ある日のこと、向こう正面で解説していた、元関脇嘉風の中村親方が取り組みに関連して、自身のことを話し始めた。すなわち、親方は、大学で講義を受けているそうだ。そこで、「ご機嫌というものの価値について」学んでいるという。ご機嫌になるには、揺るがない、捕われない、自然体でいる、という条件があるそうな。自身が現役の時、力士として晩年になったにもかかわらず、上位で取る楽しみ、さらに上位を狙う楽しみがあった、まさに、ご機嫌になる3条件を満たしていたというような解説だった。条件が3つあるなどと話す彼に、学問の香りを確かに感じた。さらに派生して、相撲とは何か、そして、なぜ自分は相撲を取るのかなど、いくつものことに考えが及んでいるのではないか、と想像もする。そういえば、あらゆるものが学問の対象になる、と言ったのは私の知人である。
以上、取り組みからこぼれていることをテレビ中継で見聞きした。それにしても、力士の作法に好感を持ち、親方の解説に学問の香りがしたことなど、思いもよらない相撲観戦のひと時であった。
サルにしばられて
2021年09月12日
小鳥や虫など小動物を目にし、生きとし生ける物との共存、という言葉が浮かんだのはいつだったか。言葉を口には発しないまでも、胸の内にキャッチフレーズとして抱いてきた。すなわち、例えば室内に侵入したクモを生け捕りして、そっと外に逃がして生かすことなどを実践してきたのである。しかし、5月以来我が家の敷地のみならず、町内に出没するサルに、こんなキャッチフレーズを壊されてしまった。そのサルが、お盆過ぎまで出没を繰り返して足掛け4ヶ月、とうとう捕獲された。
捕獲は、多くの市民の苦情に応えてくれた自治体職員と猟を生業とする方の努力の結果であった。この間、私には憂うつな日々であった。というのは、5月の連休明けから憩う場である我が庭がサルの遊び場と化したからである。庭に鑑賞用にそろえた木や鉢植えを何度も折られたり、ひっくり返されたりした。また、グラジオラスを根っこから何本も引き抜かれてしまい、今年は花を見ることが出来なかった。そして、テラスの屋根をへこまされ、物干し竿を曲げられた。それに、干した洗濯物を庭の隅まで運ばれ汚されたこともある。もう何十日も外に洗濯物を干すことが出来なくなっていた。
このようなことから、いっときでも早く立ち去って欲しくて、ある日、庭で遊ぶいとまを与えないように大声で威嚇した。しかし、却って興奮させたようで、私のいる廊下のガラス戸に向かって突進してきたのである。それからは、私の顔を見ると好戦的になり、ガラス戸を割れんばかりに叩くのであった。以上のようなことが続き、外出する際には戸をそっと開けて左右を見て、サルがいないことを確かめる習慣になってしまった。そして、庭に出るときには、必ず傘や柄の長い棒をもって身を守るようにした。私は、成り行き上威嚇してしまったから、このサルとは温厚な関係を保つことが出来なかった。
サルが街中に進出するようになった理由はわからない。街中だけではなく、山道でもよく出会うことがあり、単純に数が増えただけなのかも知れない。しかし、植林や伐採を繰り返すことが理由で、山に餌がなくなったと考えるのが妥当な気がする。植林や伐採をすることは、二酸化炭素の適度な吸収能力を高めるそうであり、人が山に介入することは、功罪相半ばなのだろうと思う。本当の理由はともかくとして、市内にはサルだけではなく、シカやクマも出没するようになった。獣にとって、まさに生き死にの問題なのである。
さて、このたび捕獲されたサルを最初に見かけたときには、小顔で人間に似た容貌を、かわいいと思った。また一時期、どこかで調達した灯油ポンプを抱えて遊ぶ様子が他の動物にはない知能の高さを思わせ、仲間意識を抱いたものである。しかし、上述のように、外に出ることさえ用心をしなければならなくなり、共存することなど、浅い考えだったと思い知った。いまは、捕獲されて私の周りは平和になった。しかし、私だけがそのようになったとしても、問題は何も片づいていない。今でも、別のサルが近隣の町に出没し、それも群れを成していると聞いている。
街中にサルが進出して、獣とヒトが近接状態になったものの、お互いに相容れなくて、結局は棲み分けすることが肝要である。共存するなど夢のまた夢である。しかし、ほかの獣にはない知能を有していて、気になる存在ではある。立花隆著『サル学の現在』に、「サルのサル性を知らなければ、ヒトの真の人間性もわからない。」と書かれている。ヒトに似ているからこそ彼が取り組んだのだろう。しかし、サルに悩まされた身には沁みる書物である。何故なら、庭を荒らされた4ヶ月を経験したばかりであり、サル性を知るなどと、目下の私には学問どころではないというのが本音だからである。そうは言っても、出会ったのも経験のうち、獣に敵対心という関心を抱かれたことなど、これまでなかったことである。もう少しして、ほとぼりが冷めたら、この書物を再読する気になるかも知れない。
以上から、獣とは棲み分けすることを踏まえた対策がもっと要るのではないかと、このたび改めて思った次第である。自然とともに在り、生きとし生ける物すべての「平和」に配慮して初めて、文明を享受できるのだろうと夢想した。
静かな世代交代
2021年07月08日
ある日、街中を運転していた時のことである。ふと対向車を運転している人が眼に入り、若い、と思った。そう思ってから、すれ違うクルマのドライバーを意識してみると、若い人のほうが多く、もう自分と年齢が近い人は、あまり見かけないことに気がついた。
私は運転免許をとってから、すでに半世紀が過ぎた。この間、色んなクルマに乗った。そのクルマはモデルチェンジを果たし、次々と新しく変わっている。しかし、その変わりようは緩慢なため、たとえ新たな技術の恩恵を受けたとしても、乗り手の私は、走る、曲がる、止まる、のツボを押さえたクルマであれば、いつも同じ感覚で運転できたのである。運転席は、自分の部屋の椅子の如く、変わることのない居心地よさをいつも用意してくれる。
しかし、若いドライバーの多さに気づいてからというもの、運転中、これまでにない気分なのである。それは何だろうと考えた。元来私は、他人の運転するクルマ本体に関心はあっても、ドライバーを個性的に見たことはなかった。それが、ステアリングを握るたび、ドライバーを意識し、まるで若者に囲まれているようなのである。正直なところ、そろそろ運転することも終焉にさしかかったと思った。それと同時に、若者の台頭を微笑ましくも思うのである。
このことを至言である「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」とまで強調するつもりはないものの、ここで得た感覚を大事にしたいと思っているところである。すなわち、クルマのモデルが緩慢な変化を繰り返しているうちにも、ツボさえ押さえていれば、クルマをみる自分は変わらない。そして、私はそこに何十年も安住してきた。人はクルマを運転して、東西南北を駆け巡る。その姿は、今も10年前も20年前も変わらない。しかし、変わらないなかに、駆る人は緩やかに世代交代しているのである。私がここで問題としたい、いつの間にか若者にとって代わる有り様が、まさしく、平和そのものではないのかと思う。改めて述べるまでもないが、市井の人は、平和を享受する権利がある。そして、平和をイメージするに相応しい、この緩やかさは、いつまでも続くのだろうか、いやそんな保証は何もないのではないか、ということにも思いが至る。
ここまで思いが巡って、はたと気がついた。この10年、為政者から、「国家百年の計に立つ」という言葉を聞かない。これこそが、国の行く末を考える端的な言葉だと思うのだが、この言葉があって初めて、私たちは安住できるのではないだろうか。果たして、私たちの為政者がこの言葉を持たないいま、私たちの役割は何だろう。ともあれ、若い人が縦横無尽にドライブ出来て、どこにも漂流しないことを願うのみである。
サル知恵
2021年05月31日
ゴールデンウィークが終わった頃から、我が家にサルが侵入している。ある日、庭に置いていたサンダルがいつもの位置から離れたところにあり、風のせいだろうかと訝った。ところが来る日も来る日も揃えたサンダルが乱れるのである。おまけに、植木鉢が倒され、庭木の枝が折れていることに気づいて初めて、サルの侵入を疑った。
数日経った休日、ドシンと音がしたので庭を見たところ、テラスの屋根にいるサルをついに見つけた。そのまま屋根伝いに逃げたのだが、屋根は凹んでしまい、被害が拡がってきた。そういえば、診療玄関や自宅の石畳でミカンを食べた跡があったことを思い出し、来院する子どもたちに危害を加える恐れもあると判断、市役所に対策をお願いした。
今、庭の隅っこに市役所と猟友会の方にお世話をいただき、檻を置いている。中にサルが好きそうなバナナやリンゴを入れてくれた。しかし、何日経っても食べようとせず、相変わらずサンダルをもてあそぶし、散水用のホースも触った形跡がある。そこで、サンダルとホースの先を檻の中に入れてみた。ところが、それからはサンダルもホースも触らなくなった。米粒や梅の実も盛りだくさんに用意したのに、一度見かけたときには、檻に目もくれず立ち去った。
その後、庭ではなく玄関でサツキの花を食べているところを見かけた。そばの植木を折るし、あとで見たら、クルマのボンネットや屋根に足跡が無数にあった。そして、クルマのそばに置いた超音波による動物撃退機もケーブルを外してしまい、庭も玄関周りも縦横無尽の勢いで乱しているのである。まるで、我が家がサルの館になってしまった如くである。
この半月あまり、庭を見るたび、玄関を見るたびに、思い通りにならない口惜しさを抱いてしまう。また、侵入していないかと見ることが朝起きてからの日課になってしまった。扉も恐る恐る開けている。サルがどこかに去ってほしい、檻に入ってほしいと、どれだけ思い続けても狼藉は収まらない。本当にしたい放題して、こちらの被害感情が高まる毎日が続くなかで、ふと、こんなに勝手をしている動物なのに、衣食住どれも人間に及ばないではないか、本は読めないし文章も創作できないではないかなどと、人間よりは劣等動物だという思いが頭をよぎった。そして、それと同時に、檻に餌などを入れたり、超音波による撃退機を備えたりすることは、それこそサルにも劣る「サル知恵」だと思ったのである。
しかし、これらの思いは、すぐさま打ち消した。やはり、たとえ人間ではない動物に対して、当たり前ながら優越意識など抱いてはいけない。いや、人間は野生ではなくなっているので、比べるようなことではない。檻に入らないからと言って、自虐的にサル知恵以下だとしたのも、これまでの平穏な生活をかき乱された末の思いである。
以上、思い通りにならないことがきっかけで、劣等動物などと優越意識を抱いたことを反省しているところである。いくら被害を受けても、優劣に結びつけてはいけない。サル知恵は、広辞苑を引くと、浅はかな知恵、とある。普段使わないサル知恵という言葉。この言葉自体が優越感そのものであることに気がついた。こんな言葉を使っているうちは、サルの知恵にはかなわないと思いながら、解決することの遠くないことを念じる毎日である。