音のこと
ゼルキンのピアノ協奏曲
2016年12月11日
休日の朝、久々にベートーベンのピアノ協奏曲を聴きたくなった。取り出したのは、ルドルフ・ゼルキンが弾いたベートーベンの全集物で、ラファエル・クーベリックが振っている。私は、そのうちの第5番を選んだ。冒頭でピアノによる華やかさを聴衆に与えてくれるこの協奏曲の第1楽章は、協奏曲ということを忘れるほど長いオーケストラだけの演奏がこれに続く。そののちに改めてピアノとオーケストラが掛け合うという具合だ。
ゼルキンの演奏は、ひと言でいうと誠実なのである。ゼルキンは、冒頭にあるピアノ独奏のためのカデンツァを皮切りとして、大き過ぎないように音を鳴らし、リズムはきちんと刻んでいる。自分の指に絶大な信頼を持っているのだろうな、と推測できる節制した弾き方である。ここに記した、大き過ぎない音は、華やかであればあるほど過度に表現せずに、エネルギーを内側にため込んでフォルテを奏でる、と言い換えたらいいのかも知れない。また、リズムをきちんと刻むと記したが、特に同じフレーズが続く個所で、より正確に刻んでいる。しかし、音楽はいつまでも正確に刻んでは行かない。ある時は、ゆっくりとなるリタルダンドの個所が登場する。そんな音楽の流れの過程で、リタルダンドが用意されていることを聴き手に感じさせてくれる、いや期待させてくれるような正確さなのである。この弾き方が、第2楽章の緩徐なメロディ、そして終楽章にもずっと引き継がれていく。
ゼルキンの、節制して、正確に刻むという演奏を何にたとえたらいいだろうか。例えば、几帳面に洋服を着て、おしゃれな人だ、ということをまず想像する。いや、そういう外観で例えるのではなく、おつき合いしたときに、相手の考えを出来るだけくみ取ろうという努力をする人、あるいは、相手との関係で、何が誠実な振る舞いなのかということを知っている人、とでも言えるようなことが、演奏からにじみ出ていると思うのだ。
1978年3月15日、東京の普門館でゼルキンの演奏会があった。もう40年近く前のことである。曲は、ブラームス・ピアノ協奏曲第1番。私は、一番前のやや右側に席をとった。この日、間近で見たゼルキンは、風邪を引いていたようだった。演奏途中で鼻水が流れてきて、弾く合間に鼻をハンカチで拭っていた。一度は、流れた鼻水が長くつながってしまったから、手で肩に除けた。そんな仕草を見ながらの演奏だったが、今こうして思い返すと、風邪を引いていたという悪い状況でも、誠実に奏でていた、と改めて思う。
誠実な演奏ならいいのか、ということでは決してない。ゼルキンは、今奏でている音のあとに、どのような音楽がこれから出てくるのだろうかと、予感させてくれ、期待をさせてくれるのだ。それが音楽を聴くことに、どれだけ喜びとなるか、ということを教わった気がする。そのような演奏を誠実だと表現したくなる。
ブラームスの演奏は、あまりに昔のことなので、仔細は忘れた。しかし、ベートーベン・ピアノ協奏曲第5番を聴いて、フラッシュバックのように思い出したブラームスに、ベートーベンを聴いて感じたことと同じことが確かにあったのである。幸い、当時NHKで放送されたライブ録音をテープに収めているので、近いうちに聴き直してみるつもりである。
普門館での演奏は、小澤征爾が指揮したボストン響との競演であった。長い時が経つと、指揮者が小澤征爾だったことを忘れてしまっていたが、それだけ私にはゼルキンの演奏が刷り込まれていたからだと思う。なお、ベートーベンのほうは、前年の1977年の録音で、当時はゼルキンの絶頂期だったのではないだろうか。
シューマン歌曲「新緑」に思うこと
2016年03月31日
私がシューマンの歌曲集を手にしたのは、まだドイツ語のアー、べー、ツェーも知らない高校生のときである。当時私は、音楽部合唱班に所属し、そこでシューマンの「二人の擲弾兵」という合唱曲を歌った。この合唱曲の原曲が歌曲であることを知って、その譜面を手に入れようと、歌曲集を求めたのだ。
そこにたまたま含まれていたのが「新緑」である。この曲には、か細くて、冷やかで、ちょっとしたことで壊れてしまいそうなメロディがあった。また、何かをいたわるようなやさしさもある。おそらく、高校生で、今より感度が鋭かった時期に見つけたものだから、余計にそう感じたのだろう。もちろん、今もその思いは変わらない。音源を持っていなかった私は、譜面を見ながら、1ページにも満たない簡潔なメロディを何度も何度も口ずさんだものである。メロディもさることながら、大学生になってからドイツ語を多少知り、その内容が理解できるようになって、益々この曲の虜になった。
曲には、Einfach 単純、飾らず、あっさりと、という意味の発想記号が冒頭につけられている。ト短調の主要三和音がピアノで鳴らされたところに、レ、シとシ、ソなどの3度の音程を多用した比較的速いテンポで歌が始まり、たったの8小節で1番が終わる。このあとのピアノの間奏は、さらに少ない4小節である。ここは、同名調のト長調に変わり、これも3度を多用し、最後はト短調の和音に戻って、2番に引き継ぐ。これが3番まで繰り返されて、消え入るように終わる。
この短い中に、3度の音程、特に短3度が散りばめられている。短3度は、古典派のモーツァルトやベートーベンの曲で、よく耳にする音程である。耳にするというよりは、この音程に私はいつも気を留めてしまう。私が最近挑んだシューベルトのピアノ曲にも、曲の転換や展開する部分に、ふんだんに使われていた。この音程は、その曲の勘どころで耳にするため、重要だと常々思っているのだが、これが「新緑」にも使われていた。ロマン派には、過去の様式、つまり古典派への憧憬と模倣を指摘することが出来るといわれているように、確かに、ロマン派のシューマンにも引き継がれていると感じたのである。
この曲にはいくつもの対訳、直訳があるが、ここでは堀内敬三の対訳を取り上げる。
一 さみどり さみどり お前のすがたを 雪かぜの冬に どれほど待ったことか
二 土から芽生えた さやかな緑よ 森かげのかぜに お前を抱こうよ
三 苦しさ さびしさ 浮世の旅路も さみどりの色に こころはなぐさむ
この訳詞を詠むと、長くさびしい冬を耐えている人に、まだ雪が残っている大地から、待ち続けていた緑が、やっとわずかに出てきてくれた、何と緑になぐさめられるのだろう、というような情景が想像できる。医師であったケルナーの元々の詩を題材にしたシューマンも、おそらく同じ情景を頭に描いたのだと想像する。ト短調で描かれたこの曲想は、まさにそうなのだ。高校生の時に感じたことを裏付けるような歌詞である。そして、この歌詞を知って、それまで気にも留めなかった「新緑」という曲名が気になるようになった。何故なら、「新緑」という語の意味は、至る所が青々とした緑で覆われるような、明るく広々とした緑をイメージさせるからである。たとえば、唱歌の「おお牧場はみどり」のなかに、「草の海、風が吹く」「よく茂ったものだ」という訳詞がある。新緑という語にはこういった、明るく晴れ晴れとした緑が浮かぶのである。広辞苑を引いたら、実際、新緑は、晩春や初夏のころの若葉のみどり、とあり、おまけに季語は夏になっている。
ドイツ語を教わるようになって、この「新緑」という曲名の原語、Erstes Grün は、初めての緑、最初の緑、の意味であることを知った。そうなのだ。高校生の時に感じていたように、この曲は初めての緑だったのだ。「初めての緑」なら、詩の内容と曲想とに合う。しかし、なぜ初めての緑を新緑と訳したのだろうか。
曲に親近感をもってもらうために、訳者が意訳ともいえることをしたのかも知れない。確かに、短い曲名のほうが覚えやすい。いや、そのようなことではなく、erstには、新しい、という意味があるのではないかと思って、独和辞典を引いた。そこに、真っ先の、初めての、ついぞなかった、などの意味は書かれているが、新しい、は書かれていない。
そこで私は、「新緑」という曲名をつけた理由を、過去に記録された中に、手がかりがないかどうかを国立国会図書館のサーチを利用して探ってみた。
1950年に刊行された春秋社、世界音楽全集、声楽篇に、「若緑」とある。初めての、でもなく、新しい、でもない新たな曲名に遭遇した。もっとさかのぼってみると、1949年、東京音楽書院、シューマン=歌曲集には「新緑」の曲名。さらに、1937年、同じく東京音楽書院、新撰女聲曲集にも「新緑」が見つかった。
面白くなって、大正期までさかのぼってみたところ、1924年、門馬直衛の著作に、音樂家と音樂、シユーマンがあり、この中の104ページに、「初綠り」という記述がみられた。この記述に、私は小躍りした。大正期に彼は、Erstes を忠実に、初、と訳していたではないか。そこで、その前に調べた1937年までの13年の間に、何らかの理由で「新緑」に変化したのではないかと推理した。しかし、この間の文献が見つからない。しかも、さらにさかのぼってみると、1910年、天谷秀、近藤逸五郎共著、女聲唱歌には、またもや、「新緑」と書かれていたのだ。検索した事柄は、ここまでであり、曲名をつけた理由にまで及ばなかった。
明治時代までさかのぼってみて、すでに「新緑」と訳されていたことが明らかになった。しかし、なぜ「新緑」と訳したのかについては、よくわからないままである。しかし、門馬直衛の書物に、そうではない記述があったことに、一筋の光明を見た。時間が許せば、彼の他の書物を読んでみたいと思っている。
最近になってこの曲に、「初めての緑」と曲名がつけられたCDが発売された。メゾ・ソプラノのカサローヴァが歌うそれである。大正期に一時使われていた、忠実な訳語が平成になって再び使われている。このCDがきっかけとなって、「新緑」は変えられていくのだろうか。今後の動向が楽しみである。
(紀南医報2016に寄稿)
ミケランジェリの演奏
2015年08月14日
フラッシュバックのように、過去が浮かび上がることがある。1973年に行われた、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの演奏会も、そういったうちの一つである。
ミケランジェリは、リストの再来、と賞賛され、20世紀において最もコントロール能力に長けたピアニストのうちの一人と称された。土壇場でキャンセルすることでも有名だった。幸いなことに、私は日本公演のうちの一つを聴くことができた。
当日になって、キャンセルされることなく演奏会があることを本当にうれしく思った。それなのに、演奏を聴いているうちに、気分がだんだん重たくなってしまったのだ。その重たかったということが、聴いてから半世紀近く経っても、フラッシュバックのように浮かぶ。いったいそれは何だったのだろうと思い、当時を辿ってみた。
演奏が始まってまもなく、普段聴いたことのない多彩な音色を耳にした。そして、音と音とが滑らかにつながる、としか言いようがないのだが、突出する音などはなく、私自身が音に包み込まれたようでもあった。そして、聴きながらふと、足元のペダルを見た。ペダルを深く踏み込んだと思ったら、次には浅く踏み、その浅さも一様ではなかった、と思う。鍵盤の叩き方もさることながら、ペダルの踏み方で様々な音色を奏でられることをまさに目の当たりにした。ひとたび始まった音すべては前の音につながり、音色は多彩である、という改めて考えてみたら当たり前のことを繰り返し語りかけてくれた、という具合か。そういえば、語りかけやすいのかどうかはわからないが、演奏の場は、舞台上ではなく会場の中心にあり、聴衆とほぼ同じ高さに作られていた。
終わってみたら、聴衆を圧倒し、その演奏に皆が惹き込まれたというよりも、むしろ、織物を緻密に織り込む様子を見ているようで、拍手はしたものの、拍手に違和感を覚えるような演奏だった。そんな演奏に同調してしまい、だんだん重たくなってしまった。名演奏に興奮した、というようなこととは明らかに違っていた。当時東京芸大教授だったピアニストのK氏が、演奏を聴いたあと、気分を変えたいために騒々しいラーメン屋に飛び込んだ、とあとで聞いた。然もありなん。気分を変えたい理由が何であれ、少なくとも私は楽しむためだけに音楽があるわけではない、と思った。
ミケランジェリが演奏したCDが手元にある。CDは、ロンドンでの生演奏で、私が聴いたのと同じ曲が収録されていた。ところが、この曲を聴きなおしても、音色のちがいを聴き分けることができず、実際に聴いたときと同じように感じることはできなかった。
私が演奏を聴いたときは、まだ20代だった。もしかしたら、今より感受性が鋭く、音楽も今とはちがった感覚で聴いていたのかも知れない。あれから半世紀近くも経って、世の中の多くのことを丸く治めることができるようになった。そういえば、音楽も緩やかに受け止めることができるようになった。そのような変化が昔の事実を再現することを阻んでいるのかも知れない。いや、長年月経ったからこそ、あの時、重たかったな、と殊更強調してしまっているのかも知れないとも思う。
今まで、多くの演奏を聴いた中で、重たい気分になったことは、この演奏会のほかには記憶がない。確かに、あのときは重たかった。しかし、CDを聴いて、あの重たさの理由どころか、重たく感じたこと自体、演奏によるものだったのかどうか、わからなくなってしまった。
音楽を聴いて心が動く。しかし、奏でてすぐに消えてしまう音楽に動いた心を辿る、ということは、決して楽な作業ではないと改めて思う。ずいぶんと昔まで辿ったのであるから、当然のことだが、これは音楽に限らない。ときどき、学生時代のことを思い出して、話すことがある。同じ経験をしたことを話すと、お互い昔はこうだった、と水掛け論になることもよくある。
記憶に残ったことは、本人にとって事実と感じられることが多く、とかく物事を簡単に断定しがちになるが、謙虚さをもつことが大事だと思う。
蝶々さんと赤色
2015年07月01日
作曲家プッチーニは、日本を舞台にしたオペラ、蝶々夫人を作った。アメリカ海軍士官と芸者蝶々さんとの悲恋物語である。アメリカに行ったきりの夫を待つ蝶々さんに、すでに別の女性と結婚した、という知らせがあった。やつれ果てた末に、自害して劇は終わる。以前、浅利慶太さんが、このオペラを本場イタリアで演出して評判になった。その演出が映像に残されている。最期に自害する場面、白装束に身を固めた蝶々さんが、白い布を敷き詰めた場所に座っている。刀に擬した扇で胸を刺す。今度は、その扇を少しずつ開く。扇の赤地が見えて、胸から出血したことがわかるという塩梅だ。果ててうつ伏せになったその時、周りにいる黒子たちが敷いた白い布を引っぱると、鮮やかな赤い布が現われ、辺りが血の海と化してオペラは幕となる。
この白から赤への変化は、なかなか印象的である。この間、もちろん音楽は鳴っている。しかし、赤い布の出現は、音を超えてしまって、まるで無音オペラのようだと一瞬思わせた。演出を終えた浅利さんのインタビュー記事がある。そこでは、「劇的というのは非常に単純に規定できるんです」と語っている。そして、最期の場面について、乃木希典大将夫人の自害を念頭に置いたと述べている。大将夫人は、お子達に先立たれて、血の涙を流したといわれ、殉死した大将のあとを追って、胸を突き刺して自害した。乃木夫妻からただよう、いわゆる武士道精神をオペラに融合させようとしたのだろうか、と想像する。
浅利さんは、劇的さは単純に規定できる、ということを、生々しい血の色で完結させたようだ。この白から赤へと変化するさまに、私は視覚が音楽を凌駕したと思う一方で、その劇的さ故に、返って違和感を覚えた。蝶々さんの選んだ死の前に、例えば小さな我が子に別れを告げなければならない心境がどう表現されるか、などということは、その後の赤い色の出現で隠されてしまったように思う。人間蝶々さんの一期の終わりのアリアが武士道的振る舞いによってかき消された、というと大げさか。悲恋の末に自害することは劇的ではある。しかし、それを写実的に強調すると音楽を削いでしまうのではないか、と思うのだ。
さて、戦後に再開されたバイロイト音楽祭で演出した、ワーグナーの孫のヴィーラント。彼の演出は、抽象的な装置を用いて、それまで普通にあった写実性をなくした。私が記憶している舞台は、1960年代に来日した際に演じたトリスタンとイゾルデのそれである。舞台の中央には大きく高い板のようなものだけがあり、その上の方に2つの丸い穴があいていた。この2つの穴は1つにはならず、結ばれない二人を表わすらしくて、説明なしには理解が出来ない。パルシファルでは、円盤のみを用いていた。時代が飛んで、最近のバイロイトの舞台では、背広姿の人物や、現代的な工場と思われるような装置を用いていて、古代の伝説などを題材にした楽劇がさらに変貌してしまっている。
ワーグナーについては、作曲した時代に即したもの、そして古代や中世を題材にしたものは、その時代考証を踏まえて演出した舞台ものを私は選びたい。過去の記録の中では、ヴィーラントの弟であるヴォルフガングの演出は写実的な要素もあり、私は好んで鑑賞している。私は演出技法については不案内だ。だから、浅利さんとヴィーラントとをひっくるめて論じることに無理があるかも知れない。しかし、オペラ鑑賞するにあたって、両者の演出だと、その楽しみが薄まってしまう。
ワーグナーでは写実的な舞台を望み、蝶々夫人では写実的すぎて嫌だという矛盾。いずれにしても、この私の好き嫌いという気持ちがある限り、多くのオペラを演出も含めた総合芸術として鑑賞できないのではないか、という結論だ。それは、物ごとを思い通りにしたいというわがままなことと同じだ。在る芸術をそのまま受け入れるには、オペラでいえば、演出家が抱く哲学のようなものにも思いを致すことが要るなあと思う。好き嫌いと言っているようでは、まだまだ精進が足りない。そうはいっても、オペラの鑑賞に限らず、身の周りを自分の思い通りにしたいという性は、大抵の人にあるのではないだろうかと想像しながら、精進せず、目下受け入れられるオペラを選んでいる。狭い枠内でも楽しめるのだから、まあそれでいいのだろう。
指と響き
2015年06月17日
シューマンの曲は、歌曲もピアノ曲もこれぞシューマンだという趣がある。それは、行進曲風に、あるいは編むように和音が進行すること、流れが途中で突然とまると私には思える個所があること、そして、音が思わぬ飛び方をする、というような作りかたにあるのではないかしら。このことは、曲の響きを主に考えたのだろうということと、私の頭の中ではつながる。シューマンを弾くことは、それを裏打ちするような体験でもある。
私が弾いた予言の鳥。左右の指を交叉させたり重ねたりさせて、指に無理強いさせるような音の配置が多くて、練習し始めは、響きを楽しむどころではない。ショパンには、右手がメロディ、左手が和音、と簡単にはいえないまでも、それに近いように構成された弾きやすい個所がしばしば見られるのだが、シューマンにはほとんど見られない。しかし、譜読みを進めるごとに、無理な指使いがシューマンの響きをつくる、と確信するのである。
ところで、シューマンは、自身がピアノを練習する際に、第4指を動かす訓練をし過ぎて、指を壊してピアノが弾けなくなったようだ。第4指を訓練する理由が、私が指に無理強いさせることに関係があるのかどうかはわからない。ただ、その他のピアノ曲、たとえば2mに達する巨体で手の大きかったラフマニノフの曲などとちがって、指を出来るだけ伸ばして強く弾くわけではないのに、やけに指が疲れるのだ。響きを楽しむ一方で、壊れたシューマンの指を否応なく意識してしまうのである。
ドラマと音楽
2015年05月24日
ここ数年、NHKの大河ドラマをみている。多くのドラマに音楽はつきもので、登場人物を固有の音楽で表現もしている。つい音楽の効用で、その人物の世界に入ってしまう。
ドラマだけではなく、古典的なオペラもすでに同じような手法が用いられている。例えばワーグナーの楽劇では、いくつものモチーフ(動機)が組み合わされて音楽が構成される。そのうち、人物に与えられたモチーフにより、聴衆はその人物をイメージできる。このモチーフは、ワーグナーの長時間劇につき合うには、音楽の本質とは別に、複雑な人物模様の理解を早めることになり、重宝するものだ。
さて、大河ドラマだが、ある悲劇を演じる人物が登場すると、決まって悲しさを表わす同じ音楽が流れる。そして、画面は音楽とともに悲劇一色となる。言うまでもなく、人は音楽を始めとした周りのものに刺激を受ける。特にドラマに使われる音楽は、演じる人を見ながら聴いているので説得力がある、と改めて思う。気がつけば私は、音楽が一体となった作られたイメージでの人物を楽しんでいるのだ。
しかし、一方で大河ドラマは、歴史に実在した人物を扱っているので、その人物をもっと知りたい、と思うこともある。悲しい結末に向かうだけではない別の歩みをセリフから推し量りたい。そんなことから実際に買い求めた歴史書が、私の書棚にはいくつか収まっている。私の好奇心に火をつけたのは、もちろんドラマである。ただ、いくら歴史書を読んでも、本から私の頭に件の音楽は流れてこない。
話はさかのぼって、19世紀にリストが、標題音楽という用語を作った。これは、曲の詩的な考えを伝えるためのものといわれている。そして、音以外の表現を用いた、聴き方も含めた総合芸術の一種と考えられている。作り手が聴き手に問題提起をより強くさせたものと評価もされている。
標題から音楽を作ることと、ドラマの脚本から音楽を作ることとは、私には同じことに思えるのだが、そうだとしたら、すでに200年近く前からある手法が、今も楽しませてくれていることになる。しかも、それはワーグナーのモチーフに似た手法でもあるのだ。
歴史に実在する人物の一断面を描いたドラマを補完する音楽を聴いて、19世紀の音楽にまで私を辿らせてくれた。そして、19世紀にはおそらくなかった歴史ドラマに伴う音楽を享受できる今を幸せに思う。
ドラマが終わって、しばらくしてドラマの音楽を口ずさんでいる自分に気がついた。それは、音楽に情緒的に流されてしまったのか、あるいは音楽の力強さなのか、今はわからない。
時を隔てた聴き比べ
2015年03月28日
かつて鍵盤の獅子王と呼ばれたピアニストがいた。85歳で亡くなる直前まで現役として弾き続けた。
その彼の最後の演奏会の記録がある。大曲の途中、最終楽章の始まる前に、「少し休ませて下さい」と断って、短い休憩をとった。そして、休憩後はプログラムが変更され、小曲を3曲弾いて演奏会を終えた。その1週間後、彼は心臓病で亡くなった。この日の彼の演奏には、音が抜ける個所があり、いつもの完璧さがなかった。休ませて下さいという声が弱々しく、しかも、亡くなった日が私の誕生日でもあって、私は長い間、聴く気持ちになれなかった。
さて、いつもの完璧さがないなどの理由で遠ざけていて、長い間聴くことができずにいた最後の演奏を20年以上隔てて聴く機会をもった。そのきっかけは、音楽評論家の随筆を読んだことにある。評論家は、戦争を免れて九死に一生を得たことから、自分の人生を自分の力で生き、いつ死んでも悔いのない日々を送ろうと考えた、と随筆に書いていた。これを読んで、仕事、生きること、そして音楽が頭の中で合わさり、もう一度聴いてみようという気になった。
曲に入る前に、腕慣らしをするようにピアノに触れる。そして、弾き始めても、心臓が悪いことなど窺い知れない様子で、どんどん進める。聴き手に曲の進行を楽しませるようにリズムを刻み、大きな音は十分鳴っていた。技術的なことはさておき、その表現は、往時に引けを取らず、演奏を中断するまで、身体に異変があったことは、わからないくらいだ。
彼の身体にどのような変化があったのか、当時の記録を調べても詳細はわからない。ただ、当日撮った写真をみると、やや顔にむくみがあり、何らかの理由で心臓の機能低下をきたしていたのではないかと想像できた。それで、最終楽章を弾ききる力がなかったのかも知れない。
精神科医の中井久夫さんは、往診には空腹、尿意、便意は禁物で、これらが気力を萎えさせる、と言っている。演奏家ももちろん、健全な身体があってこその気力だろう。彼は、最終楽章を前にするまでは、弾ききる成算があったにちがいない。演奏家として、曲の途中でやめなければならなかった心境は如何ばかりか。私は、曲を中断するまでの演奏を繰り返し聴きながら、大曲に命の最期まで挑んだ気持ちに感服してしまった。私が若いときに聴いて、いつもの完璧さがないと思ったことは、 すっかり消えてしまった。むしろ、清々しく世の中に別れを告げたのではないか、とさえ思った。最期まで演奏を続け、ピアニスト冥利につきる死に方をした、と言った人がいたが、まさに演奏家人生を全うした。
この演奏会の記録を、若い頃の鋭敏な感覚で嗅ぎとって買ってはみたものの、若さゆえ感傷的になって、狭い視野で判断した結果、遠ざけてしまった。それが年を取ることによって、新たな気持ちで受け入れ、しかも演奏の本来の価値を見出すことができた。若さが審美眼を曇らせる、ということがあるのかも知れない。そして、年を取って得た経験は、芸術の接し方に変化をもたらす。
時を隔てて一つの演奏会を鑑賞して楽しんだ。このようなことが出来るのも、現代の、呼べば来てくれる再生技術のおかげである。演奏を何度も聴くという、この上ない時間を過ごすことが出来た。
1オクターブを弾く
2014年11月24日
ショパンが作ったワルツは19曲あり、どれを聴いても、ああ、あの曲かと多くの人が思う曲ばかりである。そのうち、3曲ある作品34には、Vivace と記された2曲の速い曲に挟まれた真ん中に、Lento(ゆるやかに) と指定された曲が配置されている。愁いと希望とが交錯するこの曲に挑戦した。
冒頭は、低音に支えられた主題が左手に与えられている。同時に弾く右手はごく弱いタッチで主題を浮き立たせる。音符でいうと、主題はレ、ミ、ファ、ソの4音が繰り返される。この繰り返しの次に、すぐ上のラ、シ、ドが受ける、という流れを2度経て序奏が終わるという次第だ。たったこれだけの音符で、物憂い、と私は思うのだが、その気分が演出される。このあと次の主題に移る。ここは、霧が晴れて空がサッと見えるような移り様である。ここの移り具合を聴くたびに、このワルツの中で一番大事なポイントだと、私は常々感じていた。
移った主題の始めにショパンは、1オクターブ離れたミを弾かせる。最初の低い方のミは、アウフタクト、つまり強さを感じさせないよう弱く弾く。それは、次に弾く高い方のミに注意を喚起するための弱起であるのだが、弱い音だけに、むしろこちらの方が注意を要する。それだけではなく、先の主題が終わる際に、若干のリタルダンド、だんだんテンポを遅くして、この低いミに引き継がれているから、どのようなテンポで1オクターブを弾くかが鍵になる。
ここまでのことを私は承知していたのだが、実際にはどう弾いても主題同士がつながらない。ある日私の先生が、低いミは、リタルダンドした遅い速度を保ったままにしたらどう?とアドバイスしてくれた。つまり、この1オクターブの2音をミ、ミではなく、ミー、ミというようなテンポで弾きなさい、ということなのだ。このテンポを保って弾くことを会得して、ようやくつながった。
ここで、低いミを長く保って弾くことは、音楽表現のうちのごく一部のことに過ぎない。いや、このワルツ全体の中でも、だ。私は以前からこの1オクターブに注目していて、ここにこれがあるからこそ、この曲を聴き続けていた。しかし、その理由に弾いて初めて気がついた。このワルツは、これまで弾くよりは聴いていたい曲だったのだが、今は弾きたい曲になった。
音の起源
2014年10月30日
ベートーベンのピアノ・ソナタ第14番、通称月光ソナタの第3楽章を弾いていた時のことである。上行旋律に伴って、3度間隔で重ねられた和音が転回を繰り返す。その在り方を覚えると、先にどんどん進むことが出来ることに気がついた。いや、覚えるというより、音符が書かれた通りに弾くことは、自然の成り行きであるように、指が構えてくれる、と言ったところか。むずかしい曲にもかかわらず、弾き通せたことから、あることを感じて連想した。
動物としての人間が進化して、ものを考えるようになったのは十万年も前のことだろうか。そんな昔に、どういう精神活動をしていたのかを解明するための記録は発見されていない、といわれている。その後、人類最初の芸術の痕跡としてラスコー洞窟の壁画が発見されたことは周知のことである。
後世にまで残る壁画とちがって、同じ芸術でも、音楽はその場で消えてなくなる。だから、ベートーベンはどのようにピアノを弾いていたのか、ということはもちろん、もっとさかのぼって、洞窟に壁画を描いていた太古の昔に、人はどのようにして音楽を奏で始めたのか、ということは知る由もない。しかし、消えてなくなった人類最初の音楽をベートーベンの曲は私に連想させた。
これは勝手な想像だが、ベートーベンは、メロディとは何か、リズムとは何かと問い続けた末に、太古の昔まで辿っていったのではないか。創造物は単純なものから始まる、ということに帰結し、音楽の原点を意識した上で昇華させたのではないか。創造を始めた原点につながる音楽だから、私の指も馴染んだのではないか。そんなことに思いを馳せた。ピアニストのラルス・フォークトが、ベートーベンの音楽は時代を超越していて、ワーグナーやシェーンベルクはもちろん、現代音楽まで先取りしている、と述べている。この先取りしているということは、私が想像した、音楽の原点を辿ったからこその考えで、それだから時代を超越できるのではないか、と思うのだ。
最初のクラシック音楽として多くの人が親しんで聴く運命交響曲。私も子どもの頃に、父から買ってもらったマルケヴィッチが振った運命が入門曲だった。この曲も太古の昔を掘り起こさせて、自分のルーツを確認させてくれるから、多くの人が定番のようにして聴くのではないか、と思いは尽きない。
ところが、運命を始めとした中期に作られた曲は、重たく感じて最近はあまり聴きたくない。それは、人間のルーツ、本性のようなものは、実はそっと隠しておいて明らかにされたくないということで、なかなか聴く態勢にならないのかも知れない、と愚考している。
ミサ曲ロ短調の冒頭
2014年10月10日
テレビの放送でバッハ作曲ミサ曲ロ短調を聴いた。アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏。残念ながらキリエの冒頭は聴き逃した。ロ短調は、カール・リヒターが振ったLPを若い頃、長らく聴いていた。冒頭部分には、主よ、と呼びかけて、祈る、というキリエの言葉のうちに、生まれたが故に味わう悲しみを受け止めて欲しい、ということが表わされている。リヒターで聴くその部分は、合唱している団員全員が指揮棒を見つめ、譜面を声にする、という音楽を進める当たり前の作業が、まるで私の真ん前で繰り広げられるように迫ってくる。声が私の身体の一部をえぐり取るがごとくに。
昔私は、キリエの冒頭部分を繰り返し聴いた。若かったから、たとえ身体をえぐり取られるようになったとしても、何度でも聴くことができたのだろうと今は思う。若さは、本質にズバリと入ることのできる力がある。今なら畏れを抱いてしまうため、繰り返し聴くことを私の耳が受け付けない。
そんなことを思いながら、アーノンクールが進める演奏を聴いていた。歌い手たちの表情をとらえた映像が何度も登場する。聴きながらその表情を見ているうちに、聴き逃した冒頭の部分が聴こえた気がした。それが映像の力なのか、あるいはリヒターにない音楽だからなのか、それはわからない。
その放送は夜だったのだが、いざ寝ようと思っても寝られなくなってしまった。どうも、久しぶりにロ短調を聴いて、何かをやろうという気持ちにスイッチが入ってしまったようなのだ。昔に見聞したことを思い出すことは、回想にふけるだけではなく、今を生きるために要る、と思うのだが、生きるリズムは壊さないようにしよう、とも思った。