診療の中で
取材されて
2013年12月06日
先だって、ある地元新聞社の取材を受けた。仕事場を紹介させて欲しい、という ことだった。新聞に医院の宣伝をしてくれるのだから、ありがたいな、と思いつつも、 知らない人にどういう話をしたらよいだろう、と悩んでいた。あれこれ考えた末、 当日の朝になり、人を診ずして病気を診るな、ということが念頭にあることを話そう、 と決めた。診断機器が日進月歩の如く発達し、医師個人の診察技術に負う部分が 少なくなった。そんな中で、人を診る、ということを忘れてはいないか、と自戒の 念もこめて発信したかったからである。
人を診る、ということについてはうまく書けないが、たとえば、血圧が高いとき、 その人が生まれながらに持っている血圧なのか、悩みごとを抱えた末に上がって しまったのか、あるいはその他に何か原因があるのか、という風に様々なことが 考えられる。病気だけに目がいっていると、一人一人はちがう、ということに 気づかなくなる。だから、ありふれた症状でも、新しい人が来た、という感覚を もって診療にあたらなければならない、ということなのである。このような感覚を 持ち続けるためには幅広い勉強が必要だ、ということも話した。
小一時間話したことをどのようにして書いてくれるのだろうか、と気になっていた。 果たして記事を目にして、胸の鼓動が高まってしまった。正直にいうと、強調して 欲しかった部分と話の流れの中で出てしまった部分とが、混在していて、何だか 違和感があるな、と思ったのである。書かれたことは、全て間違いはないので、 こんなことはぜいたくな言い分なのだろう。しかし、伝える、という手段に欠陥が なかったのだろうか、と考えてしまった。さて、子どもが成長する過程で備わって欲しいことの一つに、自己理解がある。 自己理解とは、自分のことを適切に知ることである。自分を知るようになると、 子どもは「こんなことができたんだよ」などと話すようになる。つまり、自分を 言葉で表すことが出来るようになるのである。ところが言葉で表して相手に伝える、 という意思伝達は、案外むずかしいのではないか、と思った。このたびの取材に 際して、自分をきちっと知らなかったのではないか、と反省してしまった。
人間が整理できる記憶は7つくらい、と書物に書かれている。もしこれが本当 なら、自分のことを表すときに、もっと整理しておかなければならないのでは ないか、頭に溜めている多くのことを出してしまったら、受け手は収拾がつかない のではないか、自分を知り、自分が出来ることをしっかりと認識して、はじめて 言葉が成り立つのではないか、と思いを巡らしていた。今回の経験で、その言葉を さらに文字にしてもらう、ということは、気が引き締まるものであることも わかった。本当に言葉には責任をもたなければならない。どうも、反省すること しきりであるが、自己理解は、子どもの成長要件だけではない、と思った。