時世の粧い
作曲家、和田則彦さんのこと
2020年04月01日
私の部屋の書棚には、作曲家の和田則彦さんが編集した、主にピアノ演奏用の楽譜が何冊かある。彼からいただいた数々の楽譜が、今はすべて遺品となってしまった。
和田さんが亡くなって1年以上が経った昨年末、もう年賀状をお送りすることもなくなった寂しさを思い、改めておつき合いした40年余りを振り返った。
オーディオ制作現場での和田さんとの出会い
和田さんは、現役で東京芸術大学作曲科に行かれ、同期にはフジコ・ヘミングさんが在籍、一浪した山本直純さんが一学年下におられたと聞いた。幼少の頃より、ピアノの腕前は並ではなく、来日したドイツのピアニストであるウィルヘルム・ケンプに認められたという。私は、ケンプに会ったときの正確な年齢を聞いていないのだが、初来日が1936年であるから、和田さん4歳の時だったのだろうか。そのケンプから、大人になってもピアノをずっと続けるようにと助言されたという。しかし、才気煥発というのはまさに彼のこと、ピアノ演奏に留まることなく、その後作曲家として活躍され、音楽や音に関して幅広くその才能を発揮された。そのなかで、オーディオ評論をされたことが、私がお近づきになれた理由であった。
和田さんに私が初めて会ったのは、私が確か20代の頃で、当時彼は40歳を過ぎた頃だったと記憶している。20代の私は、なかなか演奏会に足を運ぶ時間がなくて、自分の部屋でよりよく聴くために、原音を忠実に再生する装置を探していた。ちょうど折よく、原音再生を目的としたオーディオ作りをしていた人を見つけることが出来た。そして、その制作現場で和田さんに会ったのである。
和田さんの音感、ピアノ演奏
和田さんの著書のうち、『やぶにらみオーディオ論』に書かれた内容は、「レコードの情報量をすべて拾いきるには…」「自家製アングラ録音の楽しみ」等の目次が示すように、ほとんどが機器についてである。作曲家としては、やや分野外と思えるが、子どもの頃よりオーディオ装置を溺愛されたこともあったらしいから、彼には違和感のない領域だったのだろう。この書物の中に、芸大作曲科の入学試験で聴音も満点をとり、と書かれている個所がある。実際耳と記憶は素晴らしく、私のようにただの音楽愛好家には想像できない凄さがあった。
その端的な例は、彼が編集した『ジャズ・ピアノ・アドリブ名演集』にある。ここには、25曲のスタンダード・ナンバーを13人のピアニストが演じた曲から採譜したものが取り上げられている。その中に、テディ・ウィルソンが弾いた「二人でお茶を」の譜面がある。これは、ドリス・デイの歌で有名だが、私がピアノで聴くのも良いものでしょうねと伝えたところ、名演集を発刊したときのエピソードを話してくれた。すなわち、テディ・ウィルソンなど全国のジャズ・ピアノのファンから、なぜアドリブで弾くことの多いジャズの曲が譜面となっているのかという質問が出版社に殺到したというのである。すなわち、即興で弾いたのだから、譜面になり得ないというのである。このことから、彼が想像を超えた採譜技術を持ち合わせていたことがわかる。あり得ないものがあることにファンが驚き、それを和田さんは、ふふふ、とほくそ笑んでいたようだった。
また、同業の作曲家、助川敏弥氏は、「才能ゆたかな友人たち」のなかで、「和田則彦君の脅威の音感」と題して、「この人の音感は最高位に属するもので、ピアノの鍵盤を目茶目茶に押しても手の下で鳴った音を即座に一つ残らず容易に言い当てます。それだけでなく、記憶力も併有していて、聞いたばかりの曲をすぐ再現できる。」と記述している。私の記憶では、聴いたばかりの曲だけではなく、どうもかなりの曲を和田さんは頭に入れていたようであった。たとえば、私が適当に曲をリクエストしたにもかかわらず、すぐさま弾いてくださった。そして、弾き始めると、それまでの雑談とは打って変わって、真剣勝負にも似た至福の音空間が用意されるのである。
和田さんの遊び心
和田さんの遊び心には際限がない。たとえば、20年以上前には、寝弾きに興味を持たれた。寝弾きとは、ピアノの前に座るのではなく、仰向けに寝て、腕を上にあげて鍵盤のところに持っていくという、アクロバティックな弾き方である。彼は、パーティなどでアンコールとして披露したことがあり、その弾き方をあるピアニストに伝授したところ、彼女はそれをポルトガルのピアニストであるマリア=ジョアオ・ピリスに伝えて、ピリスもさっそく真似をしたという。2005年にいただいた年賀状には、彼女が寝弾きした写真が載っていて、ご丁寧に、「孫伝授」と印刷され、その下には自筆で「珍品写真でしょう!?」と添えられたことから、和田さんの上得意のお顔が目に浮かぶ。彼の存在は、遊びをせむとや生まれけむ、の歌を彷彿とさせるのである。
博学な和田さん
私は、ある時にブラームスのピアノ四重奏曲ト短調とショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲ト短調に類似性があるのではないかと追究したことがあった。前者のほうの第4楽章では、ジプシー風のリズムとメロディが繰り返す。そこをショスタコーヴィチが参考にしたのではないかというように聴こえる個所が後者にある。私は、双方の音符の流れを追ってみたものの、私の聴感を裏づけるものは発見できなかった。そこで、和田さんに探るためのヒントをいただけないかと、尋ねてみたのである。そのとき、ショスタコーヴィチやプロコフィエフは、旧ソ連の大都会にいて、作風としてジプシーが表に出たものはないかも知れない、むしろ、ギリシャ、ロシア正教の音階と関連が深く、そううつ症気質を思い浮かべてしまうと即座にコメントをいただいた。どうも、類似性はなさそうだという彼の見解なのである。このコメントをもって、私の聴感は的外れだったと観念して、それ以来双方の曲と縁遠くなってしまった。
ところが、和田さんは、それからも興味を持たれたらしくて、その後、折に触れて、成果が出ることを楽しみにしていると言ってくださった。それっきりになってしまったけれど、心にかけてくださったことは嬉しく思っている。
教えてもらった再現芸術のおもしろさ
和田さんは、作曲家の創作した譜面は「書式」であり、そこには音がない、再現芸術家が音を響かせるのだから、同じ譜面でも、その細部は千変万化なのであると、雑誌に書かれた。これが演奏の本質を表していることは、当然のこととして、あとから思うと、このことに基づいて話してくださることが多かった。たとえば、マーラーの交響曲第4番をメンゲルベルクが振った音源を一緒に聴いたときのことである。この第1楽章の冒頭、管楽器に続いて弦楽器が奏でる部分、メンゲルベルクはややテンポを落とし、一瞬、メロディを止めた如くにもっと遅くして、しかも、これ以上弱く弾けないくらい音量も落とす。和田さんは、この冒頭、この冒頭、ここ、ここ、と始まった途端に嬉しそうに、その流れを声と手で示すのである。それは意外性のある展開で、平たく言うと、音楽をどうしてしまうのだろうと緊張感が走るような演奏なのである。さらに和田さんは、テンポの揺れを言葉ではなく、指揮者のように身振りで披露なさる。もう上機嫌なお顔で、言葉にならない声も発しながら、それは楽しそうであった。このメンゲルベルクがご自身の音楽観に通じる人だったからにちがいない。これは1939年に録音された古い演奏であるが、私は何度聴いても、演奏にたちまち惹きこまれてしまう。この曲を始めとして、彼のおかげで、再現芸術の妙味を若くして知ることが出来たことに感謝している。
眼に見えない糸
和田さんと出会ってからの40年余を振り返ってみて、改めて、このような天才と会えたことが不思議であると思った。そういえば、私の身近に和田さんと関係ある人がたくさんいたことを思い出した。和田さんのお知り合いで、オーディオを趣味とした人が熊野市井戸町におられた。そして、確か親類のピアノを弾く人が新宮市広角におられた。また、昔私が大学の先輩の結婚式に参列した際に、チェロを弾かれたのが和田さんの親類であった。滅多にない出会いであった内実は、もしかしたら、眼に見えない糸で結ばれていたのかも知れない。