時世の粧い
詩のような
2020年07月15日
小林秀雄の著作である「モオツァルト」を先だって読み返した。このところ、18世紀のドイツで生まれた文学運動であるシュトルム・ウント・ドランクと音楽との関係を探っているのだが、その途中で小林秀雄も調べたくなったからである。
「モオツァルト」を読み進めるうち、高校時代の3年間、部活をともにした友人のことが浮かんだ。彼は読書家で、本をよく紹介してくれた。その彼と西武池袋線に乗っていたとき、小林秀雄の書いた文章は、詩のようであり、かみしめて読んでいるというように話してくれたことを、電車のつり革の感触とともに覚えている。私は、彼とは違って、小林秀雄を乱読したに過ぎず、その結果、当時は書かれた一部に惹かれただけだったということを思い出した。過去の不明を恥じることである。だから、ある日の音楽会で小林秀雄に間近で会ったものの、心酔している、などの言葉をもちろん、かけることは出来なかった。
さて、文中にある「モオツァルトのかなしさは疾走する」という有名な文言と、道頓堀の雑踏のなかで交響曲第40番の有名な主題が突然鳴り出した、と書かれている部分は、特に懐かしく読みとおした。その「モオツァルト」の中に、たとえば、「歌劇の台本がどんなに多様な表現を要求しようと、モオツァルトが音楽を組上げる基本となる簡単な材料は、器楽の場合と少しも変らなかった。」とあるように、音楽を構成するものは、簡単な材料であると、喝破している個所がある。また、「人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、恐らくモオツァルトにはそう見えた。劇と観ずる人にだけ劇である。どう違うか。これは難しい事である。」と書いた後に、耳を澄まして聞くより他はない、と結ぶあたりを何度か読んだ。これらの部分を始めとして、昔と違って「モオツァルト」を精読したのである。いや、私の現下の問題意識、つまり、音楽家がどう文学と関わってきたのかに興味があったので繰り返し読んだのである。そして、口語調と思えるような文章に、たびたび立ち止まることがあった。その私の思い至り方が詩のようであると感じることなのかも知れないと愚考もした。
目下、文学運動と音楽との関係を探ることが出来ずにいるものの、寄り道のように読んだいま、家の中に埋もれていた宝箱を見つけ出した気分である。その中には、たまたま10代後半に出会った友人が与えてくれた無形の財宝があったと思いつつ。