小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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時世の粧い

三島没後50年

2020年11月25日

三島由紀夫が割腹自殺してから50年が経つ。先だって、たまたま三島に関係していると、私が思ったことがあったので、記したい。

11月になってからテレビで、この節目を機に特集番組が放映された。それを見ているうちに、私が今も行っている新聞記事の収集を、三島が市ヶ谷の自衛隊に乱入したことを報じた1970年11月25日の夕刊より始めたことを思い出した。自殺した翌日の新聞の社説には、首相の所信表明についての記事に次いで、「三島由紀夫の絶望と陶酔」と題して、批判的な記事を掲載していた。

その11月25日、私は大学の授業で実験をしていた。休憩時間に外に出るとクラブの後輩が、三島が自殺したらしいと教えてくれた。瞬く間に事件のことが学内で広がり、授業に戻ると、実験グループだった同級生が、「(小説は)フィクションではなかったのだ」と首を傾げるような仕草をしながら、ぼそっと語ったことをはっきりと覚えている。

それ以降の数年、私は三島の小説を漁った。そして、約半世紀書棚に放ってあったうち、『午後の曳航』を2カ月前に再読した。それは、3年前に亡くなった知人の大学教授が遺した著作をいただき、その中に三島なるものを見出したからである。それを確かめようと三島を再読した結果、知人には、果たして三島に通じる思考があった。確かにあったと思う。

知人は、物理学を専攻していた。その傍ら、詩や俳句、小説を手がけて、その数は尋常ではない。ある時、文系、理系と隔てることには意味がないと、私に説いてくれたのは、自らが実践していたからにちがいない。いただいた彼の遺した文章には、難解な個所がいくつもある。小説の途中で何度も立ち止まり、文章をかみ締めていたら、ふと三島が浮かんだのである。たとえば、「僕は窒息するような自由の真っ只中で生きていた。」というように逆説的と思われるような文言。窒息と自由という言葉を並べて用いている。一方、三島には、「成長を迫ること(中略)とりも直さず、腐敗を迫ること」という文章がある。

私は、知人とは文章だけではなく、話をしてもわからないことがあった。たとえば、私がジプシー音楽について話すと、それは、イスラムの世界まで拡げて探ることが肝要、というような調子で、何故か話を思いがけない方向に発展させるのである。一般に、生活をするとその周りには、わかることもわからないこともあることは、周知のことである。以下は、私の知人に対する推理である。彼は、わからないことを、わからないなりに話し、そして、文章にしたのではないだろうか。ここでは「窒息」と「自由」という相容れない言葉を並置することで、わからないこと、すなわち懸命に生きると、その矛盾や生きづらさが顕在することを表したのではないのだろうか。三島の小説の真髄については、多くの識者が紙面を賑わせているが、私には、とても述べることは出来ない。しかし、20代の私を夢中にさせた三島の存在感は今に続いている。それは、知人の文章に感じる生き方とつながっている気がするのである。そして、二人を並列させて考えたことで、知人の持つわかりにくさを幾分でも理解できそうなのである。さすがに、この歳になると夢中になることは少なくなった。そんな中で、知人には、生きづらさの果てには、得も言われぬ美しさがある、と美意識を渇望する秘めた思いがあって、それが著する原動力になったのではないかと想像したくなったのである。

以上、浅い推理ではあるものの、両者に共通の懸命さを感じたことで、時の経つこと、ひとが在ることをちょっぴりと考えさせられた。三島没後50年の節目となった命日の今日、知人へのオマージュとして記した。