時世の粧い
ハチ退治
2024年08月26日
先日来、毎日庭木に水やりしている。猛暑に加えて、日照りが続いたことで、サザンカが枯れかかってきたからである。ところが、水やりしていると、ハチがブンブンと飛んでくるのだ。以前、カシノキやキンモクセイのてっぺん近くに巣を作っていたことがあったから、上の方にまた作っているのではないかと、恐る恐る首を伸ばして探した。しかし、どうしても見つからず、水やりのたびに怖い思いをしていた。
ある日のこと、ふと低木であるサツキを、首を縮めて見たら、立派な巣があるではないか。道理で、水やりしたら騒ぐはずだ。さて、退治してもらうにも、庭師さんは来てもらったばかりで、お願いしにくい。そこで、市役所環境対策課に電話してみた。そうしたら、75歳以上の市民だったら援助するが、75未満なら防護衣を貸し出しするので自分で退治して、ということだった。防護衣だけだなんて、埒が明かないから、思い悩んだ末に、同級生の友人に相談してみた。ありがたいことに二つ返事で引き受けてくれたのである。
友人は、防護衣に身を包んで、サッとスプレーを巣にひと吹きして、あっという間に完了。他の個所のサツキにも別の巣があり、こちらも退治してもらった。ありがたかったことは言うまでもない。彼は、仕事柄ハチの巣に何度も遭遇するのだろう。その手早さは見事であり、その姿は自然体であった。そんな短い時間のなかで、彼の存在がやけに大きかった。彼とは、小学生の時に近くの川にウナギを取りに行くなど、共有した時間が多かった。その後、年を重ねてそれぞれ進む道はちがってしまったものの、兎にも角にも半世紀以上交流が続いている。
彼がハチ退治する立居振舞に、ふと、「餅は餅屋」という慣用句が浮かんだ。しかし、そのようにして言葉を使えば説明できるわけではないことも思った。そして、私とはちがった進む道を歩んでいるなかで会得したのであろう存在の「大きさ」をしばらく想っていた。ヒトは何事によらず反復することで身につける。身についたものは常に大きいか。そうではないだろう。ハチに刺されるという危険を冒して対峙していることが、大きさを生じるのか。そうではないだろう。昔、彼とウナギ取りしていたとき、彼は川の中にあったガラス瓶のかけらで足を切った。私は彼を背負って家まで連れてきた。幼かった頃から、いまに至る時間の流れと、ハチ退治している彼のいまを鳥瞰した。そして、一筋縄ではない過去からの集積が浮かび、一瞬にして大きさを感じたのである。
ハチ退治の顛末は以上である。蛇足ながら、彼は、ハチがこんな風に低木に巣を作るなど、あまり見かけたことがない、何か天変地異の前兆ではないだろうか、と発したことが気になっている。こればかりは、彼の「大きさ」と無縁であって欲しい。