音のこと
「人知れぬ涙」
2025年03月04日
この表題は、半世紀前に私の友人が、とてもいい歌手が歌っていると知らせてくれた曲名である。すなわち、ドニゼッティ作曲の歌劇「愛の妙薬」のなかのアリアであり、歌手はティト・スキーパ。その際彼の歌を、すごい声?とろけそうな声?死んでしまってもいいくらい?いや、正確な言葉は残念ながら忘れたが、友人は最大級の誉め言葉をもって、勧めてくれたのである。
そのスキーパの音源を久しぶりに取り出して、「人知れぬ涙」を聴いた。始まるや否や、かつて聴いたときの思い出が一気によみがえった。何もかもがとろけてしまうような声、包み込まれるような声、弱く歌う歌い方、その弱音を長く保つ歌い方の魅力等など、いくら記しても記し足りないという思いだ。いや、歌の全貌を正確に記すことなど出来ない。ついでに、オー・ソレ・ミオ、サンタ・ルチア、ラ・クンパルシータなど有名な曲を含めて、多くの歌を聴き通したのがつい先日。聴き終えて、昔その声をそっとLP棚にしまっておこうと思ったことを思い出した。
「人知れぬ涙」は、1929年に録音された。それにしても、この音源をよく残してくれたものだ。スキーパは、1889年(明治22年)に生まれ、1920年代から1930年代にかけて活躍した。ちょうど大正から昭和の初期にあたる。スキーパの声、歌を表現するには、言葉に特殊な文言が要るに違いない。私には、それを見つけられないと今更ながら思う。肺でガス交換し、気管支、気管と通った空気が声帯を震わすことに、スキーパは他の人と何を違えているのだろうか、と記したところで、何の解釈にもならない。
そういえば、今年は昭和100年にあたる。スキーパが活躍してから約100年ののちに、彼の声を享受できるしあわせ。こんな私の文章などすっ飛ばして、彼の甘くてとろけそうな声を、とにかく聴いてください。
リヒテル、モーツァルト
2025年02月12日
朝、FM放送をつけてみたら、シューマン作曲の幻想曲が流れていた。和音の切れ味、先へ進む、その進み方、速いパッセージほど無遠慮に聴こえることなど、その演奏の仕方からピアノはスヴャトスラフ・リヒテルだろうと思いながら聴いていた。案の定、曲が終わってから「リヒテルでした」とのアナウンスがあった。偶然のことながら、私はその前日にリヒテルがモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を弾いたライブ録音を聴いていた。まるで誘(いざな)われた如くに、彼の世界に久々に連日浸かったのである。
聖域という言葉がある。広辞苑を引くと、神聖な地域、犯してはならない区域などとある。モーツァルトの最晩年の曲は、その言葉を被せたくなるくらい、曲に透徹した響きを感じる。最後のピアノ協奏曲である第27番は、そのうちの一つ、いや、この曲があるからこそ、この言葉が自然に湧き出てくるのだ。
昔、アシュケナージが来日して、この曲を赤坂のホールで聴いた。そのときの感想を書いて、いまは廃刊となったレコード芸術に投稿したところ、掲載してくれたことがあった。そこで触れたのは、第2楽章の最後のほう、第74小節目と76小節目にある一オクターブ違えた同じb♭の奏で方であった。深まり、音符が少なくなり、静かになり、というパッセージ。私は、この感想文に、音が鳴るのではなく、生起している、と書いた。
この部分を、このたび改めてリヒテルで聴いた。しかし、アシュケナージの演奏とは違って、生起している、という文言は当てはまらなかった。聖域という言葉も被せられない。聖域というより、あらゆるところから音が次から次へと創られる。聴き手は、次の音がどう演じられるのだろうかという期待を抱かせられたのである。これは、リヒテルを聴くといつも抱くことである。どんどん進む、というと語弊があるかも知れないが、最晩年などと言って、特別視するのではなく、ここの音にも弾き手固有の響きがあることをわからせてくれる、といったらいいのかも知れない。
最終楽章も、一気に弾いてしまって、最後の方のソロで弾く部分は虜になってしまうくらいのエネルギーがあった。この演奏は、フィレンツェの会場で演じられ、指揮はリッカルド・ムーティ、オーケストラは地元フィレンツェの管弦楽団のようだ。CDはイタリアからの輸入盤なので、仔細はイタリア語で書かれていて、私にはわからない。しかし、曲が終わった途端、割れるような拍手が延々と続いた。そして、あろうことか、最終楽章がアンコールとして再演された。
来日したリヒテルを初来日から、何度か聴きに行った。そのたびに、音楽の「深み」を覗かせてくれた。それは、聴き手に興奮、沈潜など、ひと言では済ませられないいくつもの形容句が浮かんでくる演奏であった。フィレンツェの聴衆がどんな感想を抱いたのかは、割れんばかりの拍手が表わしていると思ったCD記録であった。
ショパンの臨時記号 ー音楽は学ぶものか?ー
2024年06月05日
最近読んだ書物に、高名な音楽評論家のことを痛烈に批判する記事があった。曰く、野球など、スポーツ評論家は、かつて一流の現役選手として活躍し、その経験を基にして評論している。しかし、この評論家はもともと演奏家ではなく、いったい「自分のどんな能力を信じて評論しているのだろうか。」と冒頭に書かれている。この音楽評論家に、私は長らく私淑していたこともあって、この文章を読んだ後は、何とも落ち着かない気分になった。言わば、身内をけなされたと言ったら、その気分を説明できるかもしれない。
批判は彼の出自に至るまで多岐に及ぶ。評論家の多くは、LPやCDで音楽を聴いて、深く理解したような錯覚に陥り、評論を始めたようだと記している。さらに、作品について論じるときには、LPやCDを基にしていて、楽譜の存在は希薄、つまり、作曲家がかいた楽譜を重んじることなく、演奏家の演奏を通して作品に接しているというのである。この高名な音楽評論家の書く文章にも同様のことがあり、彼はアマチュアの域を出ていないと、全否定の様相である。何をかいわんや。著者は芸大を中退したものの、欧米の大学で学んだ作曲家である。そのような御仁が発した言葉であり、私には、音楽評論家はもっと専門的に音楽を学べと言っているように聞こえた。
前置きが長くなった。さてさて、私は先だってからショパン前奏曲第15番を練習している。この曲は、中間部にある1オクターブを多用した劇的な響きを有する短調部分を挟むようにして、前後に夜想曲風の表情豊かな部分があり、その対照が特徴的である。曲は、ファレラーシド、と始まり、レミファソーファファーミレ、と受ける。この組み合わせがもう一度繰り返される。ここは、数多くあるショパンのメロディのうちの一つで、繰り返されることによって、記憶に留められるメロディでもある。きれいなメロディだから、あるいは、表情豊かなメロディだからという理由があるとしても、そのメロディを何度も繰り返すわけにはいかない。そしてそのあと、肺腑をえぐるような音が出現する。
ショパンは、冒頭を繰り返したあと、曲を展開させるメロディを右手に託し、その際に伴奏のように弾く左手に、初めて臨時記号としてドに♭をつけた。これは、はっと息をのむほど美しく響き、右手のメロディを支える。こんな音があったのだ。それも、たった1音で、次にどう展開して、曲を形作っていくのだろうかと、期待を抱かせてくれるのである。この臨時記号のド♭は、5小節に渡って6個、そして、ソやファにも臨時記号をつけて、曲想が入り組む。
さて、この音に臨時記号をつけたことは、全体を構成するのに必要だったことなのだろうか。あるいは、ショパンが持つ閃きが、ここで臨時記号をつけさせたのだろうか。このことは、作曲法を学べば、わかることなのだろうか。閃くことは、よく学ぶとご褒美のように身につくものなのか。作曲とは。何も私に答えはない。これが、私のような音楽愛好家の性(さが)なのだろう。
ところで、冒頭の著書は、音楽愛好家についても触れている。すなわち、「名曲の名演奏を様々に聴き比べるのは楽しい。(中略)愛好家同士言いたいことを言い合い、それが高じて、レトリックを駆使した文章が発表できれば、さらに愉快である。」と書いている。何だか、作曲家からこのように言われて気楽になった気分なのだ。さて、気楽になったところで件のショパンの臨時記号である。誰もショパンに確かめることが出来ないのだから、勝手な想像を巡らせればいいという結論だ。評論などしなくてもいい。そして、学ぶのは、作曲家にお任せし、私は、音楽に引っ掛かったことに考察を加え、あれこれと楽しもう。楽しむための材料は、山ほど発掘したのだから。
リズムの権化
2024年03月03日
遠い昔、学生オーケストラを聴いた。演目の最後はベートーヴェン交響曲第7番。リズムの権化という愛称があるこの曲で、そのリズムを刻むのに、ティンパニの役割が大きい。当時、学生オーケストラでティンパニを担当していた人が、サッカー部にも所属していた。その彼が、サッカーの練習より、この曲を演じる方が体力を消耗するというようなことを言っていた。
確かに譜面を見ると、全曲に渡って出番が多い。特に終楽章は冒頭からff(フォルテシモ)やsf(スフォルツァンド)が多くあり、ほぼ連続して叩き続けるように描かれている。その最終は、何と音符が61小節連続していて、しかも、sfはもちろんのこと、fffに至るまで強い記号が連なる。
ティンパニ奏者の昔のコメントを思い出したのは、晩年の小澤征爾さんが振ったこの曲を聴いていたときのことであった。このような愛称がついたのは、ティンパニだけではなく、リズムがオーケストラ全体から醸し出されるからだ。改めて、身振り手振りを含めた小澤さんの佇まいにぴったりの曲だと思いつつ聴いた。サイトウ・キネン・オーケストラの全員が強く弾く際に、一斉に身体の上体を低くしたり、逆に反り返ったりするような姿勢となる、その「風景」は、他の曲にも増してリズムを際立たせる。
小澤さんは、術後に体力が衰えただけではなく、腰痛も相まって、ほとんど椅子に座って指揮をしていた。それに、別の椅子も指揮台のわきに用意して、楽章の合間にそこに座って休んで、次の楽章に備えるという風であった。それが、第3楽章から終楽章へは休憩せずに演じた。終楽章の怒涛の進行に対して、ほぼ立ったままである。やせ細った体躯、椅子を用意しなければならない体力で如何に演じるのかを心配したものの、それは杞憂に終わった。すなわち、正確なリズム、力強さはもちろんのこと、今回の鑑賞で初めて気づいた、いわゆる「ゆらぎ」まで聴かせてくれたのである。生体にはゆらぎがあり、それが快適さにつながるといわれているが、メトロノームでは刻めないリズムが在った。おそらく、小澤さんは音符に内蔵するであろう自由度を確信的に垣間見たのではないか、と私は考えた。さらに、この第7番は、ゆらぎを表現するのに格好の「材料」なのだと動物的勘が働いた、ということも私は考えた。もちろん、ここに至るまでのリハーサルで、団員一人一人の力量に負ったところが多かったと拝察する。余談ながら、ティンパニ奏者は、体力的に望めばサッカーも出来るのではないかと夢想もした。
それにしても、リズムの権化とゆらぎ、というともすれば相反することの存在を発見、拝聴できた。さいわい、我が家には小澤さんの音源がいくつもある。これから何を発見できるか、追々楽しむことにする。
小澤征爾と同時代にいる
2024年02月09日
凱旋公演。1978年3月にボストン交響楽団を率いて来日し、日比谷公会堂での初日の演奏を行なった小澤征爾さんの公演ほど、この言葉にふさわしい公演はなかった。NHK交響楽団からボイコットされたという事件があって渡米し、10数年後に名門オーケストラを引き連れてきたのだ。演目はマーラー交響曲第1番など。公会堂の座席につき、程なくしたとき、小澤夫人が後ろの方から静かに入場し、その周りがサッと華やかになったことを覚えている。彼女の発するエネルギーの強さ。舞台が始まる前から、まさに凱旋していた。
ウィーンやベルリンなど、ヨーロッパのオーケストラに比べて、アメリカの方は大きな音量だというような定説が当時はあったように思う。そのことを踏まえて、団員が集まって本番前の音合わせを聴いていたら、何ということはなく、私の浅い経験からはあまり違いが感じられなかった。その後演奏が始まり、その響きは会場の華やかさと相まっていつまでも記憶に残った。そのためか、翌日にピアニストのルドルフ・ゼルキンと共演したことを失念してしまっていた。
今夕、NHK7時のニュースの最中、速報で小澤さんが亡くなったと報じた。10年以上前に食道癌を患って闘病生活していたことは周知のことで、最近の痩せられた様子を見るにつけ、こういう日が来ることは予測できた。各放送局が訃報を知らせるなかで、報道ステーションでは以前に放送した、モーツァルト・ディヴェルティメントK136をノーカットで再放送していた。若い演奏家たちを前にして、いつものように指揮する姿をみていた時のことである。第2楽章の途中で、思ってもみないようにテンポが遅くなる個所があった。テンポを落とすことで、若いときに作った、この曲にある深淵を覗かせてもらったようだった。しかし、小澤さんは楽しげに指揮している。こういうアンバランスが小澤さんに在ったのだ。
先に逝った指揮者の山本直純さんが、自分は音楽を大勢の人に親近感を持ってもらうように努めると言い、小澤さんに対しては、音楽の深さ、大きさを極めて欲しいというようなことを言っていたと記憶している。ニュースで世界中の音楽関係者が小澤さんの訃報にコメントしていたが、山本直純さんの言葉を裏付けしていると思いながら拝聴した。
音楽の申し子とも言える小澤さんと同じ時代にいたしあわせをかみ締める今宵だった。
声に惹かれて
2023年11月23日
東京神田の古本屋街を、コロナ禍前のある日に歩いていたときのことである。街にある多くの騒音と切り分けられて、ソプラノの声が突然聴こえてきた。それは、騒音に抗して、よく響く声で、私の耳元まで達した。何という声だろう。そして、もの悲しいメロディ。瞬く間に、私は言わば虜(とりこ)になってしまった。
この歌そのものを間近で聴きたくなった。おそらくCDだろう。その鳴らしている現物を見たくなった。もう夢中で音源場所を探した。どうも上の方から聴こえてくるようだ。階段を見つけなければならない。階段が見つからない。その間に、流れている声が途切れて、どこに在るのかわからなくならないだろうか。やっと眼にした階段を小走りに上った。果たして、それは階上のほとんど人が寄り付かないような店構えの中にあった。この歌を間近で聴いていると、やっと会えたというような感慨無量の面持ちになった。
初めて耳にしたとはいえ、ロシアの歌だと思いつつ、店主に曲を確かめたら、ロシアのロマンティックな歌を集めた輸入CDの冒頭の曲だった。Dubuque作曲、Do not chide me,mother。叱らないで、お母さん、と訳したらいいのか。これは、すぐに口ずさむことが出来る易しい曲である。歌い手は、カイア・アーブというエストニアのソプラノ歌手。短い曲がいくつも収録されていて、その場で何曲かを試聴し、そして購入したのである。
家に戻ってから、このCDを折に触れて聴いている。しかし、どういうわけだか神田で耳にしたときのような感懐はないのだ。もちろん、落ち着いて聴いているし、その都度、身体に染み入るので、不満などはない。しかし、何かが違う。すなわち、虜になったエネルギーがいまはないのである。
以前、私は駅ピアノを弾いた。そのとき、ちょうど電車から降りてきた大勢のお客の足音や話し声などが周りに生じたことで、返って弾くことに集中できたことがあった。そんなことを思い返していると、神田の街中の騒音とソプラノの声が対置することによって、今度は弾くのではなく、聴くことに思った以上に集中できたのではないかと、想像したのである。確かに、クルマが何台も駆けているなかで聴こえたソプラノ。静かな我が家で聴くこととは、ちがいが自明である。騒音の中の声と私の脳内とが、これまでにない「化学反応」をしたのだと夢想した。耳鼻咽喉科名誉教授だった角田忠信は、雑音を右脳で聴くなど、脳には機能差があることを追究していた。私が騒音のなかで弾いたり、聴いたりしたことは、角田の述べたこととは関連がないことは承知しているものの、聴く条件によって、その内容を脳内に刻む、刻み方が異なるのだろうと思ったのである。
騒音の中の「創造美」。体験をしたからこそ、このように記してみたくなった。
追伸
カイア・アーブが歌ったDo not chide me,motherは、ユーチューブで試聴可能である。
https://www.youtube.com/watch?v=qWatGGRSCSw
ルプーのピアノ その2
2023年10月29日
昨年鬼籍に入ったラドゥ・ルプーの音源を私は1枚しか持っていないと思っていたのに、棚にしまってある中に、さらに1枚あったことがわかり、喜んで鑑賞した。曲は映像で残された、モーツァルト・ピアノ協奏曲第19番K459である。
彼のピアノを聴くと、以前に記したように、音を生地に例えてベルベットのような肌触りのようだと感じたことは、このモーツァルトを聴いても変わらなかった。この曲もほかのモーツァルトの曲と同じように、長調と短調とが織り成して、その構成が深く大きくなる。ルプーは、織り成し方を自然に、としか言いようのない弾き方で進めていく。それがひいては、モーツァルトには「歌」があることを改めて感じさせてもくれる。ルプーは、歌を歌っているのである。転調するたび、あるいはフォルテシモの個所になるたび、もっと音が鳴り続けて欲しい気分になる。そういえば、かつて指揮者のブルーノ・ワルターが、モーツァルトの曲のリハーサルで、団員に対して「sing」と何度も口にして、歌うように演じることを強調していた。作られた曲を読み込み、モーツァルトの意図した響きを鍛錬された指で演じ、聴衆に披露するという当たり前の道すじが、この上ない時間を用意してくれる。
ルプーは、濃い真っ黒なひげをたくわえていて、暗い夜道などで会うと、怖くなるような顔かたちをしている。ところが、彼の弾きながら指揮者をみる、あるときは前上方をみる、その眼のやさしいこと。信じるものがあるとすれば、この眼なのだと思ってしまう。また、眼力などという定量的ではない言葉も浮かび、つい音楽を離れてしまうものの、この眼は、彼の奏でる音楽と一体なのだと夢想もした。それはともかくとして、好きなモーツァルトを、体を揺すらせて口ずさんで鑑賞したひと時だった。
追伸
ルプーの演奏を希少なお宝映像と思っていたら、ユーチューブで試聴できる。
シューベルトの強弱記号
2023年09月04日
早逝したシューベルトは、30歳、31歳の晩年にいくつもの傑作を書き上げた。ピアノ曲である3つの小品(D946)もそのうちの1つである。私は、その中の第2番を好み、数少ないレパートリーのうちにしている。この曲の後半に、弾き始めたころから気に留めていた個所がある。何となれば、同じフレーズが続く個所につけられた強弱記号が異なっているからなのである。それは、ちょうど179小節から4小節にわたって、ファレ、ドシシ、ドラドラ、シソシソのフレーズがあり、その直後の183小節からも、同じように繰り返されている。すなわち、この2つは同じフレーズにもかかわらず、179小節にはfp(フォルテピアノ)、183小節にはfz(フォルツァンド)の記号がつけられている。前者は、強く直ちに弱く弾き、後者は、特に強く弾く記号で、強く弾くことでは似た者同士である。そこを違えて弾くことの難しさがあるものの、私は弾き分ける理由を知りたかったのである。ここは、知るためにいくら情理を尽くしたとしても、私には踏み込むことが出来ない領域であることをわきまえつつ。
シューベルトは、18世紀の終わり、1797年に生まれた。その20数年前にはドイツで文学運動があり、それはシュトゥルムウントドランク(疾風怒濤)と称して、人間性の自由な発展や感情の解放を主張して、ロマン主義の先駆をなしたといわれる時代であった。それ以前の啓蒙思想に反発したこともあって、激しい感情表現をめざし、反理性的で、極端に主観的判断に重きを置く点が特徴とされている。その頃20代であったゲーテはその旗手となって、ドイツ文壇に確固たる地位を獲得した。そのゲーテの詩をもとにして、多くの歌曲を作ったのがシューベルトである。18世紀の終わりから19世紀を、私なりにひも解いてみたら、生下時より疾風怒濤期にいたシューベルトは、その「洗礼」を受けていたのだろうと想像できて、鑑賞するにあたりそのことを勘案する楽しさがあることを改めて知った。
さて、その疾風怒濤と強弱記号をつけることの関わりを想う。シューベルト以前と以後とを細かく比べたわけではないが、シューベルトに続いた多くの作曲家の作品には、強弱記号も速度記号もその数と内容が増えているようなのである。ここで、シューベルトの作品に記号が増えていることに疾風怒濤が関わっているというような速断は避けなければならない。しかし、生まれながらにして、その時代がシューベルトを育んでいるのであり、記号の多さと感情の発露とは無関係だというのも無理のあることである。彼は、当世風に感情表現をめざすのに、「装置」としての記号を多用したと思ったのである。fpとfzを対置し表現したのも、そのような時代にいたからこその創作の一環だと思った。それでも、ここで彼が記号を二つ用意して如何なる感情表現のちがいを見せようとしたのかは、うかがい知ることは出来ない。もし彼が存命で、ここのちがいを質してみたら、ああ間違った、同じ記号でいい、と答えるかも知れないなどと夢想もした。そのように思う傍ら、勘繰りのレベルながら解明すべく、この部分を繰り返し弾いてみた。その結果、終曲に向かうと告げることを、この二種の記号に各々課したということが浮かんだのである。実際、異なった二種の強さを経てからは、デクレッシェンドし、続いてpp(ピアニシモ)があり、静かなまま終曲につながっていく。そして、静かに始まる終曲は、ロンド形式のように曲の始めの主題と同じで、迷いの生死を重ねる輪廻のように結ぶが如くである。
以上、異なる強弱記号の存在をきっかけに、文学運動の一端にも触れた。音楽鑑賞や演奏に、時代背景を踏まえることの楽しさを垣間見る思いである。目下、ここを弾くたびに頭には疾風怒濤の文字が浮かび、指は活性化している。
音楽とは ー時を経て憶うー
2023年04月01日
今年いただいたある方からの年賀状に、「人間にとって音楽とは何かを考えています。」と、書かれていた。年の初めに、図らずも大きな命題に遭遇した。音楽とは、とボーっと考えていたある日、指揮者の小澤征爾が中国公演に至るまでの映像を見た。そして、映像から昔を連想し、追憶に浸ったので以下に記す。
小澤征爾の中国公演
小澤が中国のオーケストラを振ったのは1978年6月。その6年前の1972年に日中国交回復がなされた。国交回復後4年経った1976年に中国の文化大革命が終わるという日中間に大きな変動があった時代で、公演は、文化大革命が終わって2年後のことであった。
小澤は、中国の旧満州で生まれ、5歳まで北京で暮らした。そのような生い立ちがあるから、生まれ故郷で指揮をすることが悲願だったときく。コンサートにはブラームス交響曲第2番が選ばれた。映像には、小澤が中国の音楽家たちから受けた印象を語る場面があった。曰く、「オーケストラの人は、誰もブラームスを弾いたことがない(中略)だからブラームスの語法を全然知らない。(中略)ブラームスの持っている特別な味があるわけ。ブラームスはロマンティックで、幅が広くて重くって(中略)ドイツ音楽の最たるものだけど、彼らがやると、音だけ。一生懸命勉強したから、サラッといっちゃうわけ」「ドイツ音楽の最たるもの、その辺に持って行くまで時間がかかった。僕も必死でやった、彼らも必死、もう何でも吸い取るだけ吸い取ろうという気持ちで一生懸命」。
1976年から2年もの準備を経て、やっと本番にたどり着くまで、紆余曲折があったことが想像できる。さらに、リハーサルの光景が短いながら記録されていた。ブラームスの音楽を理解していなかった団員に対して、ドイツ的な表現とは何かを伝えるために、小澤は、「しゃべって」という言葉を繰り返していた。すなわち、「音だけ」が並んだ硬い表現を和らげるために、しゃべるようにという言葉を用いて、伝えようとしていたように思う。また、年を取ってお腹が出たブラームスを浮かべるようにとの指示もあり、演奏を温かみのある生き物としての音楽へと変化させようとしていたように思った。指揮台の小澤の身振り手振りを懸命に見る団員それぞれの眼。輝く眼。まじりけがない眼、眼。それは、いまブラームスが中国において初めて創られ、団員それぞれが、これまでとはちがった世界を覗いているという眼がそこに在った。
高校での合唱
中国の音楽家たち大勢の眼を見ていた時、突然、遠い過去を思い出した。私が高校の部活で音楽部合唱班に入っていたときのことである。
合唱班が日ごろの成果を発表する場には、練馬、中野、杉並区の第三学区内のそれぞれの高校が参加する地区音楽会がある。それとは別に、東京の各々の学区がまとまって一つの合唱団体になり発表する中央音楽会もあった。ちなみに第三学区は11の高校が寄り集まり、総勢100名を超えていたと思われる大人数の団体であった。普段、部活の少人数で行なうときとは規模がちがって、しかも、ほとんどが交流のない生徒同士であった。
この中央音楽会では、指揮は、音楽を指導する教師が担うことがほとんどで、第三学区の指揮者は杉並区のある高校の先生であった。その際に選ばれたケルビーニとベートーヴェンの合唱曲を練習していた時のことである。だんだん強く歌うフレーズで、先生は、「ここを少しずつ区切って、区切った冒頭を意識してアクセントをつけてみましょう」と指導をされた。この歌い方は、それまで練習で全くやっていなかったから、半ば新しいフレーズのように臨んだことを覚えている。そこを何度か繰り返したように思う。そして、最終、私の記憶は、うまく強く歌った、というものであった。そのときである。先生は指揮棒を下げ、指揮していたときより眼を開き、「私がここで、いくつかアクセントをつけるよう、君たちに話しましたね。その通りに君たちは歌ったなあ。本当にアクセントがよかった」と私たちに話してくれた。先生の口ぶりや眼は、ともに歌を創り上げた高揚感に満ちていた。その言葉によって、交流のない生徒同士にも、一瞬の間、それぞれ眼くばせをして一体感が湧き起こったのであった。
ヴァイオリンとの協演
私の連想は尽きず、半世紀以上前に合唱したことを離れ、比較的最近のことに及んだ。今から9年前、東京芸大出のヴァイオリニスト、渡辺剛さんと熊野市文化交流センターで、私はピアノで協演するという機会をいただいた。このことについては以前の医報に寄稿したので、その一部を再掲する。「リハーサルは、これまで練習を重ねて自分のものとした曲が、新たに演じる曲のように様変わりしてしまったのである。先へ先へと進むヴァイオリンのテンポが、私に緊張を強いる。その緊張が、流れも音の強さも和音の鳴らせ方も変えさせた。」
音楽とは
小澤に対して、中国の音楽家たちは、「生涯忘れられない」「音楽の真髄に触れた」「さわやかな春風、新しい息吹を運んでくれた」と最高級の賛辞を送っている。指揮台の小澤を見る眼から、これらの賛辞は容易に想像される。そして、合唱指揮者の指導する言葉と眼は、一瞬にして大勢の生徒を一つにした。また、ヴァイオリンのテンポに気持ちが高ぶった体験。どれも、演者と演者とが特異な時間を共有していて、それは、ひいては聴衆に還元する準備の時間でもあることを今更ながら思うのである。作曲、演奏、鑑賞という三位一体の音楽、そんな音楽のエッセンスに触れたひと時を記した。
矢島愛子のピアノを聴いて
2023年02月10日
ピアニストの矢島愛子さんが12月にCDをリリースしたので、さっそく購入した。すでに、『レコード芸術誌特選盤』に選ばれるなど、評価が得られている作品である。曲内容は、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番、フランクの前奏曲、コラールとフーガ、そしてバッハ・ブゾーニ編曲のシャコンヌである。私はソナタを聴いているうちに、いくつかのことが浮かんだので記してみたくなった。無論、専門家が評価されたことに上書きなど出来ない音楽愛好家の想念が主なことである。
シューベルトのソナタ第1楽章は、長い物語を静かに語るように奏することから始まる。ちょっとした転調があり、3分くらいの経過のあと、同じリズムを刻む個所に遭遇する。そのリズムに、ふと気がついたら身体を揺らせていた。粒が揃ったピアノの音とリズムとを刻むために費やされた演者の過去の時間に想いを馳せる。この音がこれからどのくらい長く続くのだろうか、と思っていた矢先のフレーズの変わり目に抑制的な音を提供してくれる。変化は突然訪れるのである。また、短い全休符で、無音なのに緊張感を抱かせられる。まるで、ヴィルトゥオーソ。しかし、矢島さんは、まぎれもなく若いピアニストである。
中間部では、メロディーもさることながら、声でいうところの中声域を意識して浮き上がらせているのだろうと想像する個所がある。それだけではなく、低音の響きはどうでしょうかと、披露するようなパッセージ。低音に役割があることは言うまでもない。矢島さんの低音は、そこかしこでバッハの通奏低音を彷彿とさせ、古典派やロマン派というように区分けしなくてもよいように、普遍性を持った響きを有する。それは、シューベルトの低音と限らずに、ありとあらゆる音楽の低音がここに在る、という具合である。この長い楽章、低音が響いたり、休符なのに緊張感が高まったりと、耳から大脳へと経由する聴覚を啓蒙してくれているが如くであった。
第2楽章にも抑制的なフォルテッシモが散見され、大きな音とは何かと、考えさせられる。また、ここでも休符が緊張感を抱かせ、音の流れに疾風怒濤の文字がみえる。第3楽章。3拍子のテンポの愛しさ、ルバートの気持ちよさ。第4楽章。主題が繰り返して登場し、その結果、親しさを覚えるメロディーとなり、底の知れないことが露わになる。
親しさと底の知れなさとの乖離。これは、バッハを聴いていて、始終感じることなのに、矢島さんは、そのことを思い起こしてくれた。すなわち、シューベルトは、この世のもの、あの世のものを包括し、ひとが生きることのわけを「誘導」してくれるのだろうかと、夢想は拡がる。ピアニストは、その介在者に過ぎないのか。先述したように、これは、私の想念であり、演奏の評論ではない。而して、フランクもバッハも、このCDが新たな愛蔵盤となった。