音のこと
トスカから得た情念
2021年02月21日
プッチーニの歌劇、トスカを聴いた。トスカと言えばカラス、といわれていた時代があった。テバルディも同じく。この希代のプリマドンナたちの遺した音源で事足りている私は、トスカを聴くことから遠ざかっていた。それが昨年、ミラノ・スカラ座2019/2020開幕公演で行われたトスカが放映されたことを機に聴く機会を得たのである。
歌劇の舞台は1800年のローマで、旧体制を打破しようと集まっている人たちを弾圧する警視総監、脱獄犯をかくまう画家、その恋人トスカの3名が中心となった物語である。警視総監が脱獄犯と画家の恋人トスカを手に入れようとすることから物語が始まる。仔細は省くが、警視総監はトスカに刺し殺され、画家は銃殺刑、最後にトスカが投身自殺するという悲劇の物語である。
そのヒロインをアンナ・ネトレプコが演じた。彼女は、1971年にロシアで生まれて、何度か来日公演も行っていた。最近の歌手をよく知らなかった私は、初めて彼女を聴いて、久々に感心した。つまり、人間がもつ声帯の限りない可能性を改めて感じたのである。特に、トスカが警視総監から関係を迫られて、進退窮まって「歌に生き、愛に生き」と歌う有名な部分。ここは、ヒロインとしてどんな歌を披露してくれるかを鑑賞するに相応しい曲である。ネトレプコの高音は突き抜けるように響き、低音は暗転する運命を暗示するが如くの発声である。声量をあげると次の展開を期待させてくれ、弱く歌っても微動だにしない。
つい、聴き込んでしまい、はっと我に返って冷静になって、これは心の苦悩を祈りにも似た調子で切々と歌い込む曲であることを思い出したのである。私は、自分の感じるままに以上のように記した。しかし、いくら記しても、彼女の歌も声も表していなくて、聴こえてこない。もう、無用の饒舌はよそう。ただ、すばらしい歌だ、のひと言でいいはずなのに、それでは何も通じないと私が思うから、手探りするように記述をして、返ってわかりにくくしている。思えば大学時代に同級生と音楽談義したときには、あれよかったね、のひと言だけでお互いに思いを深くしたものだった。ひと言と饒舌になることとを考えた。
最近、茂木健一郎さんの著書を読んだ。その中に、ヴァイオリンの音色などは、「議論することが難しい概念で」、正しく理解されていることを「論理的に説明されたからといってわかるものではない」というくだりがある。さらに、ヴァイオリンの音色などは、「認知的な理解」「を持つ人にとっては、これ以上ないというくらいに『自明』なこと」とあり、認知的な理解を「まだ持たない人は、それをいくら説明されてもわからない」と書かれている。
この著書は難解で、繰り返し読んでもわからないことが多い。そんな私が彼の文章をここに引用することは、適当ではないかも知れない。しかし、ネトレプコの歌に惹かれてまもなく、この著書のくだりを思い出した。すなわち、私は、カラスやテバルディのトスカを若い頃に聴いて堪能した。それは、取りも直さず、「認知的な理解」であり、だから、ネトレプコを聴いて、スッと耳に抵抗なく入ってきたのではないかしら。抵抗なく耳に入るということは、すばらしい声、ということと私の頭の中では重なる。余分なことだが、同級生との音楽談義も「認知的な理解」の範ちゅうなのだろう。これを言い換えると、好きこそものの上手なれ、ということであり、結局同好の士が、どこか隅で語り合うことなのだろう。だから、多弁を要して普遍性を持たせようとすることは、無理があり、件のように無用の饒舌になってしまうのだろうと考えた。このように茂木さんの著書を引用することは、牽強付会の類かも知れず、彼に叱られるかも知れない。
ネトレプコを聴いて、しばらくして、二、三十年ぶりにカラスのトスカを聴いた。まるで人生の裏も表も垣間見せてくれるようで、何だか静かにしていられなくなり、ネトレプコとはまたちがった感情の高まりを覚えた。この「認知的な理解」、このことも含めて、私の今の感情は、二人の歌手から得た情念なのだろうと思う。情念という言葉を使いたくなるほど、トスカの色濃さを味わったひと時であった。