音のこと
神谷郁代さんの熱情ソナタ
2021年10月09日
今朝のネットニュースで、ピアニストの神谷郁代さんの訃報に接した。まだ75歳の円熟期、しかし病気のために演奏活動から遠ざかっていたらしくて、肺炎に罹患して死去したと書かれていた。
神谷さんといえば、私の記憶は、その演奏を記録した昭和50年代にさかのぼる。改めて当時求めたLPを取り出して、そのLPが飛び切り優秀な録音技術によってとられた演奏だったことを思い出した。すなわち、ダイレクトカッティングという技法を用いた、音を直接刻む方法での録音であった。それまでは、演奏をテープにとり、よければそれを採用するという、「間接的」な方法で音を収録していた。それだから、何度かテープにとって、気に入った部分をつなぎ合わせる、ということも行われていたと聞く。しかし、ダイレクトカッティングによるLPは、演奏会で演奏するのと同じく、一発勝負なのである。
これに挑戦した神谷さんは、その5年前に、コンクールの中で最難関とされているエリザベート王妃国際音楽コンクールで入賞を果たした。その際に、本選に残った12人のうち、新たな曲を、ただ一人、暗譜で弾いてのけたという才能の持ち主であった。まさに脂の乗り切ったときの演奏録音が私の手元にあった。
曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第23番。熱情と呼ばれている、このソナタのみが収録されている、ぜいたくな音源である。通常はLP1枚に熱情程度の長さのソナタだったら、3曲くらいは収録される。しかし、この音源は、余裕をもってカッティングされたから、溝が良く見えて1周の面積が多く取られ、しかも33.3回転ではなく、45回転であり、片面たったの10分くらいしか録音されていないから、ぜいたくなのである。CDしか知らない人には、何のことだかわからないだろうが、このような技法を持つLPは、未だに、音質の点でCDを凌駕しているのである。
このLPを手に入れた後、私は、スヴャトスラフ・リヒテルの弾いた熱情も手にした。リヒテルは、曲の終わりにあるプレストの部分で誰も弾いたことのない、物凄い速度で弾き通した。そのことに魅せられ、且つ衝撃も大きかったゆえ、しばらくは、神谷さんの演奏も含めて、熱情を聴くことから遠のいてしまっていたことも思い出した。このような演奏を聴いてしまうと、つい演奏の優劣を思ってしまって、当時は誰の演奏も鑑賞する気にならなかった。
本夕、改めて神谷さんの演奏を聴いた。ピアノは、ベーゼンドルファーのインペリアル。スタインウェイとはちがった、ふくよかで、しかも高域も低域も強靭な音が出る最高位にあるピアノであった。そこには、大きい、実に大きな音楽があり、身体ごと包み込まれた。デモーニッシュ、超自然的という言葉とともに、この曲に内在するエネルギーを思い出させてくれた。これを例えて言うと、頭の奥深くに収納してしまっていた熱情ソナタという「ファイル」の存在の大きさを白日の下にさらしてくれたような感覚であった。かつてリヒテルの演奏を聴いて、結果的にこの曲を遠ざけてしまったことをもったいなかったとも思った。
神谷さんのおかげで、熱情ソナタを久々に堪能した。それは、最高位にあるピアノから出た音楽というだけではなく、神谷さんの指が奏でていたからこその音の世界であった。