小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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音のこと

リヒテル、モーツァルト

2025年02月12日

朝、FM放送をつけてみたら、シューマン作曲の幻想曲が流れていた。和音の切れ味、先へ進む、その進み方、速いパッセージほど無遠慮に聴こえることなど、その演奏の仕方からピアノはスヴャトスラフ・リヒテルだろうと思いながら聴いていた。案の定、曲が終わってから「リヒテルでした」とのアナウンスがあった。偶然のことながら、私はその前日にリヒテルがモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を弾いたライブ録音を聴いていた。まるで誘(いざな)われた如くに、彼の世界に久々に連日浸かったのである。

聖域という言葉がある。広辞苑を引くと、神聖な地域、犯してはならない区域などとある。モーツァルトの最晩年の曲は、その言葉を被せたくなるくらい、曲に透徹した響きを感じる。最後のピアノ協奏曲である第27番は、そのうちの一つ、いや、この曲があるからこそ、この言葉が自然に湧き出てくるのだ。

昔、アシュケナージが来日して、この曲を赤坂のホールで聴いた。そのときの感想を書いて、いまは廃刊となったレコード芸術に投稿したところ、掲載してくれたことがあった。そこで触れたのは、第2楽章の最後のほう、第74小節目と76小節目にある一オクターブ違えた同じb♭の奏で方であった。深まり、音符が少なくなり、静かになり、というパッセージ。私は、この感想文に、音が鳴るのではなく、生起している、と書いた。

この部分を、このたび改めてリヒテルで聴いた。しかし、アシュケナージの演奏とは違って、生起している、という文言は当てはまらなかった。聖域という言葉も被せられない。聖域というより、あらゆるところから音が次から次へと創られる。聴き手は、次の音がどう演じられるのだろうかという期待を抱かせられたのである。これは、リヒテルを聴くといつも抱くことである。どんどん進む、というと語弊があるかも知れないが、最晩年などと言って、特別視するのではなく、ここの音にも弾き手固有の響きがあることをわからせてくれる、といったらいいのかも知れない。

最終楽章も、一気に弾いてしまって、最後の方のソロで弾く部分は虜になってしまうくらいのエネルギーがあった。この演奏は、フィレンツェの会場で演じられ、指揮はリッカルド・ムーティ、オーケストラは地元フィレンツェの管弦楽団のようだ。CDはイタリアからの輸入盤なので、仔細はイタリア語で書かれていて、私にはわからない。しかし、曲が終わった途端、割れるような拍手が延々と続いた。そして、あろうことか、最終楽章がアンコールとして再演された。

来日したリヒテルを初来日から、何度か聴きに行った。そのたびに、音楽の「深み」を覗かせてくれた。それは、聴き手に興奮、沈潜など、ひと言では済ませられないいくつもの形容句が浮かんでくる演奏であった。フィレンツェの聴衆がどんな感想を抱いたのかは、割れんばかりの拍手が表わしていると思ったCD記録であった。

身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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