音のこと
ミケランジェリの演奏
2015年08月14日
フラッシュバックのように、過去が浮かび上がることがある。1973年に行われた、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの演奏会も、そういったうちの一つである。
ミケランジェリは、リストの再来、と賞賛され、20世紀において最もコントロール能力に長けたピアニストのうちの一人と称された。土壇場でキャンセルすることでも有名だった。幸いなことに、私は日本公演のうちの一つを聴くことができた。
当日になって、キャンセルされることなく演奏会があることを本当にうれしく思った。それなのに、演奏を聴いているうちに、気分がだんだん重たくなってしまったのだ。その重たかったということが、聴いてから半世紀近く経っても、フラッシュバックのように浮かぶ。いったいそれは何だったのだろうと思い、当時を辿ってみた。
演奏が始まってまもなく、普段聴いたことのない多彩な音色を耳にした。そして、音と音とが滑らかにつながる、としか言いようがないのだが、突出する音などはなく、私自身が音に包み込まれたようでもあった。そして、聴きながらふと、足元のペダルを見た。ペダルを深く踏み込んだと思ったら、次には浅く踏み、その浅さも一様ではなかった、と思う。鍵盤の叩き方もさることながら、ペダルの踏み方で様々な音色を奏でられることをまさに目の当たりにした。ひとたび始まった音すべては前の音につながり、音色は多彩である、という改めて考えてみたら当たり前のことを繰り返し語りかけてくれた、という具合か。そういえば、語りかけやすいのかどうかはわからないが、演奏の場は、舞台上ではなく会場の中心にあり、聴衆とほぼ同じ高さに作られていた。
終わってみたら、聴衆を圧倒し、その演奏に皆が惹き込まれたというよりも、むしろ、織物を緻密に織り込む様子を見ているようで、拍手はしたものの、拍手に違和感を覚えるような演奏だった。そんな演奏に同調してしまい、だんだん重たくなってしまった。名演奏に興奮した、というようなこととは明らかに違っていた。当時東京芸大教授だったピアニストのK氏が、演奏を聴いたあと、気分を変えたいために騒々しいラーメン屋に飛び込んだ、とあとで聞いた。然もありなん。気分を変えたい理由が何であれ、少なくとも私は楽しむためだけに音楽があるわけではない、と思った。
ミケランジェリが演奏したCDが手元にある。CDは、ロンドンでの生演奏で、私が聴いたのと同じ曲が収録されていた。ところが、この曲を聴きなおしても、音色のちがいを聴き分けることができず、実際に聴いたときと同じように感じることはできなかった。
私が演奏を聴いたときは、まだ20代だった。もしかしたら、今より感受性が鋭く、音楽も今とはちがった感覚で聴いていたのかも知れない。あれから半世紀近くも経って、世の中の多くのことを丸く治めることができるようになった。そういえば、音楽も緩やかに受け止めることができるようになった。そのような変化が昔の事実を再現することを阻んでいるのかも知れない。いや、長年月経ったからこそ、あの時、重たかったな、と殊更強調してしまっているのかも知れないとも思う。
今まで、多くの演奏を聴いた中で、重たい気分になったことは、この演奏会のほかには記憶がない。確かに、あのときは重たかった。しかし、CDを聴いて、あの重たさの理由どころか、重たく感じたこと自体、演奏によるものだったのかどうか、わからなくなってしまった。
音楽を聴いて心が動く。しかし、奏でてすぐに消えてしまう音楽に動いた心を辿る、ということは、決して楽な作業ではないと改めて思う。ずいぶんと昔まで辿ったのであるから、当然のことだが、これは音楽に限らない。ときどき、学生時代のことを思い出して、話すことがある。同じ経験をしたことを話すと、お互い昔はこうだった、と水掛け論になることもよくある。
記憶に残ったことは、本人にとって事実と感じられることが多く、とかく物事を簡単に断定しがちになるが、謙虚さをもつことが大事だと思う。