小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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音のこと

ああ!棘上筋腱部分断裂

2018年08月14日

この数年、乱視が進んで見えにくくなった。また、腰は爆弾を抱えているような状態であり、いつ痛くなるかがわからない。まさに年を取るということを自ら体現していて、生活が狭められている。しかし、年を取ってから楽しみも見つけた。55歳から始めたピアノは、仕事の余暇を埋める格好の遊びである。そのピアノ演奏、私が10代の頃より音楽を聴き続けてきた経験を生かす貴重な機会なのであり、狭められた生活を補って余りある「生活道具」となっている。

さて、今年も若葉の季節が始まろうというときのこと、急に右肩が痛くなり、腕を挙げられなくなった。ははあ、これが四十肩、五十肩というものだと、治るまで長くかかることを覚悟した発症当時であった。それにしても、寝ている間、寝相によっては、痛みで目が覚める。朝起きて、歯磨き、洗顔、着物の着脱に苦労する等など、日常生活が困るだけではなく、ピアノを弾くことが出来なくなった。弾き始めて1分か2分くらい経つと、肩の痛みが増して、腕を支えられない。

そんなことが1ヶ月くらい続いて、全く痛みの程度が変わらないので、整形外科を受診した。すぐさまMRI検査をしたところ、右肩棘上筋腱部分断裂と診断された。この筋肉は、肩の奥にあって、腕を挙げるために欠かせない。私は主治医に、ピアノを弾くことが出来ないから困っていると訴えたところ、それが原因だと言われた。すなわち、鍵盤を叩くために腕を鍵盤の上で保持することが、棘上筋に負担をかけたというのだ。弾きたいのなら手術を勧めるとも言われた。これは、思ってもみない、私には衝撃が大きいことだった。私は、幼少のほんのわずかの期間、弾いたことはあるが、本格的に弾くようになったのは、10数年前であるから、弾くための筋肉が作られていないと、うすうす感じていた。そんな筋肉なのに、ラフマニノフ、ベートーベン、ブラームスとエネルギーを要する曲を弾き続けた結果、部分断裂を起こしてしまったのではないかと、暗たんたる気分になった。

仕事をしていると、もう年ですからと、物事をあきらめるような言葉を患者さんから言われることがある。そんなとき、私自身が遅くからピアノ演奏に挑戦したのだから、年を取っても可能性を狭めることはないと、はっきり言っていた。しかし、腱の部分断裂をきたしてしまってからというもの、患者さんにどう対応したらいいのか、迷ってしまった。挑戦することと傷を負うことに裏腹の関係があったのだから。

肩を痛めてからは、ピアノを弾く代わりに家にある音源を聴いて過ごすことが多くなった。しかし、自分で表現する喜びを知ってしまっているので、やはり弾きたいなあと、ピアノに向かう。弾いては、痛い、痛いと中断を繰り返すある日、右腕を右胸にくっつけて、肘を支点として弾くと痛くならないことに気がついた。そして、ピアノ椅子を高くすると、肩が腕を保持することが要らなくなった。この、高い椅子に座り、腕を胸にくっつける奏法を編み出してからは、だんだん長く弾くことが出来るようになった。ある麻雀好きの人が、脳梗塞を発症して、半身の自由が利かなくなってから、片手で麻雀牌を操ることを考えたそうだ。まるで、その人とは相客気分である。

棘上筋腱が部分断裂し、自由が利かなくなっても工夫を巡らすことで克服できてしまうことがわかった今、シューベルトの最晩年、亡くなる半年前の作品である3つの小品第2曲に挑戦している。私が弾くと13分ほどかかる曲の最後の方に、異なった記号をつけた強く弾く同じ音が2カ所ある。記号を細かく変えてまで求める強い響きは、シューベルトが19歳の時に作った交響曲「悲劇的」を私に思い起こさせる。この交響曲は、当時ゲーテが名づけた「疾風怒濤の時代」にふさわしい理性に対する感情の優越を主張した情熱的な作品であると私は位置づけている。それを晩年に至るまで意識して、作曲し続けたのだろうと、この2カ所のフレーズが私に想起させる。

肘を胸につけることによって、蘇ったピアノ演奏。そして、曲の強い響きに共鳴することも相まって、今が遅まきながらやってきた私の疾風怒濤期であると言ってみたいくらい、肘を支点に弾く音がいとしいこの頃である。そして、もう一度患者さんに、可能性を狭めることはない、と言えるようになりつつあるのである。

身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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