音のこと
生起すること(続き)
2018年10月11日
前の記述で、ブラームス交響曲第4番の開始音について触れた。多くの人が色んな音楽と、もっと接点があってもいいということを考えたので、少し加えて触れてみたい。
私は、バイオリンがシの音を一瞬間長く鳴らして、ソに引き継いだフルトヴェングラーの演奏を取り上げた。それは、譜面に記載された音符をその長さ通りに一糸乱れぬ刻みかたで演じるのではなく、演奏家の自由度が勝る演奏である。その演奏に私は惹かれ、ベームや福永など指揮者が感銘を受けた部分であった。バレンボイムの言う、物語が語られるということからひらめいて、具体的に例示したのである。
私が惹かれた理由を出来るだけひも解いてみる。この第4番はホ短調であり、シ、ソの次にはミが続いていて、まさにホ短調の主要三和音で始まるのである。これは、音楽の常道のようにメロディを紡ぎ始めて曲が展開するから、ここを初めて聴く人にもその流れがわかりやすいのではないかと思う。わかりやすいメロディのためか、このような曲を作るブラームスは、どれを聴いても耳あたりが良い。といっても、ブラームスの和音の進行やその配置は、ロマン派といえないくらい複雑な様相で、聴き応えも相当なものなのだが、ここでは触れない。
わかりやすく、耳あたりが良いと私は判断した。たとえば、唱歌や童謡は、やはり主要三和音で始まることが多いので、私の判断は、ある程度理解できるのではないかと思う。そのような開始音をフルトヴェングラーは、私には一瞬間の妙としか言えないように演じたのである。主要三和音のように単純だからこそ、そこに意味の複雑さがあると思慮した演奏ではないかと思うのだ。そして、音を単に出すのではなく、音を長く伸ばして力を持たせることによって、結果的に聴くという喜びを増し、あとに続く音符たちに引き継いで、生起した感情を維持し続けることに与するということだと思うのだ。いや、そのように音符を読み取ることが音楽を演じるということだと思うのだ。
4年前、私がショパンのワルツ作品34-2を弾いたとき、主題が移るところにある1オクターブの2音をミ、ミではなく、ミー、ミというようなテンポで弾くようにアドバイスされたことがあった。また、小澤征爾さんの80歳コンサートを撮ったテレビのドキュメンタリーに、音を作ることについての重要な場面があった。すなわち、小澤さんの恩師である斎藤秀雄さんに、う、う、ではなく、うー、う、というように、最初の音に勢いがあって、初めて、次の音が生きる、と教えられたことを披露していた。この場面で小澤さんは、このように意識することによって、オーケストラ全員がうまくなった、そして、音楽を深くわかるようになったと話していた。
以上、音を一瞬間長く鳴らす、最初の音に勢いがある、というようなことが積み重なった音楽が、私の音楽鑑賞の基本なのだと、改めて思う。私が高校生の時、当時の数学教師が、放課後に課外授業のように話をして下さった。内容は、数学を離れたことであり、その中で、トルストイの音楽観のような話があった。トルストイがベートーベンのバイオリン・ソナタ「クロイツェル」を聴いたとき、気持ちが不安になって仕方がなかったそうだ。たとえば行進曲を聴くと行進したくなる、というように、気分を高揚させるのが音楽であり、ベートーベンは好ましい音楽ではないというように、トルストイが語った、という話だった。
これも音楽、私が好むのも音楽。私が好む音楽は、もしかしたら、「重箱の隅」にあるのかも知れない。そのような音楽を聴いて、私は10代、20代の時間を費やした。それがこれからも意味を持つかどうかは、そのような音楽に遭遇したときの私の満足感の在り方であると思う。そして、そこに普遍性があるかどうかを誰彼なしに探り合うことが出来れば、さらに満足感が増すのではないかと思う。