音のこと
ルプーのピアノ
2022年05月12日
ピアニストのラドゥ・ルプーが76歳の生涯を終えた。私が齢を重ねてこの歳になっても、それ以上の歳を数えた芸術家がまだまだ大勢いる。そして、彼らの訃報を知るたびに、私は、この目上の人たちの恩恵を受けてきたことを改めて思う。
今から四半世紀ほど前、私は向学心が芽生え、大学の科目等履修生となった。その当時助教授として大学におられた伊東信宏さんが、ルプーを悼んで新聞に寄稿していた。曰く、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したあと、すべてのオファーを断り、勉強を続けたいとあり、インタビューや放送を許さなかったと書かれている。また、追悼に放映されたテレビのテロップでは、録音をやめて、コンサートに専念したとあった。道理で、彼の音源は探しにくかったのである。
私の手元には、ルプーが演奏したシューベルト・即興曲がある。この1枚しかない音源を聴き直し、テレビの追悼番組で演じたブラームスのピアノ協奏曲第1番の終楽章も併せて聴いた。その奏でる音は、シューベルトであれ、ブラームスであれ、強い音も弱い音も連続的に、滑らかに、すなわちゴツゴツせずに時を刻んでいる。その音楽を生地に例えるとベルベットの肌触りだろうか。破綻をきたさないことは無論のこと、どこにも刺々しさはない。その結果、音の大きさや曲想が変わっても、安心して聴くことが出来て、心を乱されることがない。だからといって、淡々と弾いているわけではなく、音がいくつも重なっていることをわかりやすく解説してくれているが如くである。そういえば、評論家の吉田秀和さんが、他の誰も弾かないような息の長いクレッシェンド(だんだん強く)とデクレッシェンド(だんだん弱く)で表現している、というようなことを話していた。
久々に聴いたルプー。その音楽もさることながら、録音をやめて、コンサートに専念したことに想いが至る。録音機器のない昔ならいざ知らず、デジタル技術も発達しているいま、それらを拒んだとは、どういう心境の変化だったのだろうか。このルプーとは反対に、グレン・グールドは、コンサートをやめて、録音に専念した。その理由を彼は、コンサートで演奏している途中に、新たな芸術のひらめきがあっても、観客の手前、演奏を中止するわけにいかず、といって、そのひらめきを犠牲にしたくない、だからコンサートはやめたと話していたように思う。グールドのこの姿勢を、多くの演奏家は賛同こそすれ、追随はしないだろう。やはり、特異的なことだから。一方で、ルプーの選択はあり得るだろうと、私は肯定する。
私のように、紀州で暮らしていると、演奏会にはなかなか行くことができない。私はかつて、原音再生を求めて、家の中でも機械が作った音ではない、生に近い音を出す機器を手に入れた。そのおかげで、演奏会から遠ざかってはいても、楽しむことが出来ている。オーディオ機器を利用した再生芸術によって、手っ取り早く聴くことが出来る、何度でも聴くことが出来る、自由な時間に聴くことが出来る、と数え上げると意のままに音楽を鑑賞出来るのである。また、曲を順序だてて聴くのではなく、好きなところだけ選んで鑑賞することを、最近になって私が行っている。音楽は、奏でて消える宿命にあり、しかも、真剣勝負にも似た集中力を要する。そのような音楽を繰り返し聴かれてもたまらないと思う芸術家はいるだろうと想像する。
しかし、これらはあくまでも音楽愛好家の考えること、ルプーがどのような考えで、コンサートに専念するようになったのかは、わからない。ここで思い出すのは、末期癌など治癒の見込みがなくなった患者さんを診ている徳永進医師の言葉である。彼は、死を前にすると、ほとんどの患者さんが言葉では表せない孤独感があるようだ、と話している。この孤独感という言葉を簡単には共有できないものの、私の「浅慮」は、この言葉を芸術活動することとつなげてしまう。すなわち、コンサートに専念したということから、創造性と限りある時間ということとが関連して頭に浮かんだのである。
以上がルプーの訃報から想ったことである。改めて、数少ない演奏記録しか残さずに逝ったルプーのシューベルトを、我が家で聴くことが出来ることをうれしく思う。
鑑賞をこえて
2021年12月29日
BS放送で「ショパンに挑みし者たち」をみた。これは、2021年のショパン国際ピアノコンクールに日本から挑んだ人たちを追ったドキュメンタリー番組である。この番組を見るまで、参加者は音楽大学、それもピアノ科を卒業したか、あるいは在学中の人たちばかりだと思っていた。しかし、そうではなく、東京大学大学院修了者や、名古屋大学医学部学生も一次予選に残り、挑んでいたのである。特に医学部学生など、私にはうらやましい限りの「二足のわらじ」なのであった。
本番に至るまでにインタビューした内容が、演奏時間と同じくらい割いて放送されていた。彼らが発した言葉をいくつか抽出してみる。すなわち、「音楽には、その時にしか出ない即興性が必ずある」「ショパンが好きだからコンクールに挑んだ」「ショパンへの憧れがあり、そこには、音楽への美意識、音楽の美しさ、ピアノという楽器にあらゆるというくらいの魅力が詰まっている」等など。
また、医学部学生は、「患者さんと接するようになって、どういう伝え方をしたらいいかを考えさせられている。それが、演奏に直接影響するかどうかはわからないが、(音楽も)いかに人の心に届けるかは、共通だ」と述べていた。これらの言葉には、ショパンに対する掛け値のない愛情を感じる。私は以前に、「ショパンコンクールのレジェンドたち」という番組をみた。そこでは、過去のコンクールの優勝者が、「ショパンの望んだ様式を踏まえて、自由さと自然らしさを追求」(ラファウ・ブレハッチ)、あるいは、「ショパンは天才で、ただ天才の傑作を理解しようとするだけ」(チョ・ソンジン)と述べていて、ショパンに対する愛情、畏敬の念は、古今東西変わらないと、改めて思うのである。ショパンコンクールの出場資格は、30歳以下の年齢である。そして、上に抽出した言葉のそれぞれは、その年齢で発しているのである。
番組を通していくつものショパンの曲を鑑賞し、それぞれの演奏者の音楽性を垣間見て、音楽芸術に触れたという満足感を得た。しかも、若い演奏者の言葉に、音楽を超えた、生きるうえでの教訓、指針のようなものを感じたのである。私より半世紀近く年齢が離れている若い彼らに、いや、負うた子に教えられて浅瀬を渡ったのである。
さて、ショパン一色となったその日の翌日、ふとショパンを否定的に捉えていたピアニストのグレン・グールドを聴きたくなった。グールドは、1955年に誰も成しえなかった演奏方法、解釈でバッハのゴールドベルク変奏曲を世に出して絶賛された。50歳で亡くなる前年の1981年にこの曲を再録音していて、しかも映像も残した。極端に低い椅子に座って、自由になった片腕でリズムを刻み、始終唸り声を発するという奇抜な演奏スタイル。しかし、そこにはその姿と相容れないような飛び切りの音楽が在った。デビュー後間もなくしてグールドは、聴衆の前での演奏を絶ち、スタジオでのみ、ピアノ芸術を生み出していた。その最高位と、おそらく言える芸術を、一人で時を刻みながら演じている映像は、底知れない芸術の深みを感じさせた。演奏の中で、低音部を際立たせることにより全く新しい響きを提供してくれることなどがあり、一音たりとも聴き逃すわけにはいかないぞと、鑑賞の間ずっと、私の聴覚に私が命令していた。それは、悪い表現であるが、前の日に聴いたショパンの音楽が吹っ飛んでしまったくらいの衝撃があった。グールドは、バッハのこの曲にしか、この世界、この宇宙を表現し得ないと確信しながら演じている、と思うような紡ぎ方であった。
いま、私は音楽を鑑賞しているのか、宇宙の果てに連れられて行っているのか、わからなくなるほどの響きがグールドのバッハに在るように思う。一瞬ではあるものの、私の部屋で一人だけで聴いていて、誰もそばにいないという孤独感に襲われ、ぞっとしたのである。ついさっきまでショパンに満足していたのに、グールドが自分の聴覚の周りを変えてしまった。ひと言で音楽と言っても、ショパンとバッハは、象の鼻を触ることと、象の尻尾を触ることのようなちがいがあるのだという思いを抱いてしまう。いやそうではなく、私が音楽自体の鼻を触ったり、尻尾を触ったりして、音楽の全貌を捉えられないのだろうと、すなわち、木を見て森を見ていないのだと思う。私は、何をどうしたらいいのか。遠く振り返って私の10代の頃、音と音楽を新発見して楽しんだような時間には、残念ながら戻りそうもない。得も言われぬ深淵が、音楽の内にあることを覗いたのであるから。とはいっても、私はディレッタント(音楽愛好家)である。やはり原点に戻って、その楽しさと対峙したらいいというのが、いまの結論である。
というように書きながら、目下何が楽しいかといえば、コンクールで過去に優勝した人の演奏を聴くことであることを思い直した。さらに、私がいま挑戦している、ショパンのワルツの数曲。そこにある半音違いで音を重ねる妙、それを自分で弾いてコントロールするときの快感をその都度抱く楽しさ。バッハもそうだけれど、聴いて楽しい、そして、探って人の心に届く何かをつかむことが出来そうなショパンに、私も末席から敬意を表したい。
神谷郁代さんの熱情ソナタ
2021年10月09日
今朝のネットニュースで、ピアニストの神谷郁代さんの訃報に接した。まだ75歳の円熟期、しかし病気のために演奏活動から遠ざかっていたらしくて、肺炎に罹患して死去したと書かれていた。
神谷さんといえば、私の記憶は、その演奏を記録した昭和50年代にさかのぼる。改めて当時求めたLPを取り出して、そのLPが飛び切り優秀な録音技術によってとられた演奏だったことを思い出した。すなわち、ダイレクトカッティングという技法を用いた、音を直接刻む方法での録音であった。それまでは、演奏をテープにとり、よければそれを採用するという、「間接的」な方法で音を収録していた。それだから、何度かテープにとって、気に入った部分をつなぎ合わせる、ということも行われていたと聞く。しかし、ダイレクトカッティングによるLPは、演奏会で演奏するのと同じく、一発勝負なのである。
これに挑戦した神谷さんは、その5年前に、コンクールの中で最難関とされているエリザベート王妃国際音楽コンクールで入賞を果たした。その際に、本選に残った12人のうち、新たな曲を、ただ一人、暗譜で弾いてのけたという才能の持ち主であった。まさに脂の乗り切ったときの演奏録音が私の手元にあった。
曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第23番。熱情と呼ばれている、このソナタのみが収録されている、ぜいたくな音源である。通常はLP1枚に熱情程度の長さのソナタだったら、3曲くらいは収録される。しかし、この音源は、余裕をもってカッティングされたから、溝が良く見えて1周の面積が多く取られ、しかも33.3回転ではなく、45回転であり、片面たったの10分くらいしか録音されていないから、ぜいたくなのである。CDしか知らない人には、何のことだかわからないだろうが、このような技法を持つLPは、未だに、音質の点でCDを凌駕しているのである。
このLPを手に入れた後、私は、スヴャトスラフ・リヒテルの弾いた熱情も手にした。リヒテルは、曲の終わりにあるプレストの部分で誰も弾いたことのない、物凄い速度で弾き通した。そのことに魅せられ、且つ衝撃も大きかったゆえ、しばらくは、神谷さんの演奏も含めて、熱情を聴くことから遠のいてしまっていたことも思い出した。このような演奏を聴いてしまうと、つい演奏の優劣を思ってしまって、当時は誰の演奏も鑑賞する気にならなかった。
本夕、改めて神谷さんの演奏を聴いた。ピアノは、ベーゼンドルファーのインペリアル。スタインウェイとはちがった、ふくよかで、しかも高域も低域も強靭な音が出る最高位にあるピアノであった。そこには、大きい、実に大きな音楽があり、身体ごと包み込まれた。デモーニッシュ、超自然的という言葉とともに、この曲に内在するエネルギーを思い出させてくれた。これを例えて言うと、頭の奥深くに収納してしまっていた熱情ソナタという「ファイル」の存在の大きさを白日の下にさらしてくれたような感覚であった。かつてリヒテルの演奏を聴いて、結果的にこの曲を遠ざけてしまったことをもったいなかったとも思った。
神谷さんのおかげで、熱情ソナタを久々に堪能した。それは、最高位にあるピアノから出た音楽というだけではなく、神谷さんの指が奏でていたからこその音の世界であった。
トスカから得た情念
2021年02月21日
プッチーニの歌劇、トスカを聴いた。トスカと言えばカラス、といわれていた時代があった。テバルディも同じく。この希代のプリマドンナたちの遺した音源で事足りている私は、トスカを聴くことから遠ざかっていた。それが昨年、ミラノ・スカラ座2019/2020開幕公演で行われたトスカが放映されたことを機に聴く機会を得たのである。
歌劇の舞台は1800年のローマで、旧体制を打破しようと集まっている人たちを弾圧する警視総監、脱獄犯をかくまう画家、その恋人トスカの3名が中心となった物語である。警視総監が脱獄犯と画家の恋人トスカを手に入れようとすることから物語が始まる。仔細は省くが、警視総監はトスカに刺し殺され、画家は銃殺刑、最後にトスカが投身自殺するという悲劇の物語である。
そのヒロインをアンナ・ネトレプコが演じた。彼女は、1971年にロシアで生まれて、何度か来日公演も行っていた。最近の歌手をよく知らなかった私は、初めて彼女を聴いて、久々に感心した。つまり、人間がもつ声帯の限りない可能性を改めて感じたのである。特に、トスカが警視総監から関係を迫られて、進退窮まって「歌に生き、愛に生き」と歌う有名な部分。ここは、ヒロインとしてどんな歌を披露してくれるかを鑑賞するに相応しい曲である。ネトレプコの高音は突き抜けるように響き、低音は暗転する運命を暗示するが如くの発声である。声量をあげると次の展開を期待させてくれ、弱く歌っても微動だにしない。
つい、聴き込んでしまい、はっと我に返って冷静になって、これは心の苦悩を祈りにも似た調子で切々と歌い込む曲であることを思い出したのである。私は、自分の感じるままに以上のように記した。しかし、いくら記しても、彼女の歌も声も表していなくて、聴こえてこない。もう、無用の饒舌はよそう。ただ、すばらしい歌だ、のひと言でいいはずなのに、それでは何も通じないと私が思うから、手探りするように記述をして、返ってわかりにくくしている。思えば大学時代に同級生と音楽談義したときには、あれよかったね、のひと言だけでお互いに思いを深くしたものだった。ひと言と饒舌になることとを考えた。
最近、茂木健一郎さんの著書を読んだ。その中に、ヴァイオリンの音色などは、「議論することが難しい概念で」、正しく理解されていることを「論理的に説明されたからといってわかるものではない」というくだりがある。さらに、ヴァイオリンの音色などは、「認知的な理解」「を持つ人にとっては、これ以上ないというくらいに『自明』なこと」とあり、認知的な理解を「まだ持たない人は、それをいくら説明されてもわからない」と書かれている。
この著書は難解で、繰り返し読んでもわからないことが多い。そんな私が彼の文章をここに引用することは、適当ではないかも知れない。しかし、ネトレプコの歌に惹かれてまもなく、この著書のくだりを思い出した。すなわち、私は、カラスやテバルディのトスカを若い頃に聴いて堪能した。それは、取りも直さず、「認知的な理解」であり、だから、ネトレプコを聴いて、スッと耳に抵抗なく入ってきたのではないかしら。抵抗なく耳に入るということは、すばらしい声、ということと私の頭の中では重なる。余分なことだが、同級生との音楽談義も「認知的な理解」の範ちゅうなのだろう。これを言い換えると、好きこそものの上手なれ、ということであり、結局同好の士が、どこか隅で語り合うことなのだろう。だから、多弁を要して普遍性を持たせようとすることは、無理があり、件のように無用の饒舌になってしまうのだろうと考えた。このように茂木さんの著書を引用することは、牽強付会の類かも知れず、彼に叱られるかも知れない。
ネトレプコを聴いて、しばらくして、二、三十年ぶりにカラスのトスカを聴いた。まるで人生の裏も表も垣間見せてくれるようで、何だか静かにしていられなくなり、ネトレプコとはまたちがった感情の高まりを覚えた。この「認知的な理解」、このことも含めて、私の今の感情は、二人の歌手から得た情念なのだろうと思う。情念という言葉を使いたくなるほど、トスカの色濃さを味わったひと時であった。
父子鷹のすがた
2020年06月01日
新型コロナウイルスの感染拡大が始まったころの新聞に、2月1日にピーター・ゼルキンが亡くなったと報じていた。ピーター・ゼルキンは1947年に生まれ、フィラデルフィアの音楽院に入学、父ルドルフ・ゼルキンを始めとした指導者に学んだピアニストである。親友であった武満徹によると、当時アメリカを蔽っていたベトナム戦争の影響などがあり、単なる天才児に留まらなかったようだ。すなわち、父ルドルフなどから受けた音楽教育を根底から見直そうとして、その偉大な父の薫陶を鵜呑みにできなかったと記している。すでに有名になってから、欧米とは異なった文化に触れて、仏教への関心をもち、ある時は、長髪にしてTシャツを着たヒッピーを思わせる風貌であった。
そんなピーター・ゼルキンのモーツァルトを久々に聴いた。モーツァルトのピアノ協奏曲を数曲残してくれていたのは、幸いであった。というのは、人一倍傷つきやすい感性を有していたと武満徹が述べていたのであるが、その感性が、決して多くない音符ゆえに、どう演じたかを端的に聴くことができるからである。そして、残念ではあるが、こちらの感性のせいで、何度か聴くと別の新たな音楽が展開するのである。いや、残念ではなく、喜びなのかもしれないが。
曲が始まってから、最初に感じたのは、4分の3拍子でも、4分の2拍子でも、第1拍の音が、いま第1拍であるということがはっきり聴こえるように弾いている、ということである。つまり、小節の冒頭から音楽が生起するということをわからせてくれて、そのことがまさに音楽を調子づける。また、モーツァルトの曲は、長調と短調とが曲の進行に従って織り成すように転調する。転調することの機微を味わうのも私の楽しみのうちの一つである。果たして、大いに楽しんだのである。その、長調が短調にかわる、あるいは短調が長調に戻るという間際に、もう少し転調しないでいて欲しいと、前の調が消えるはかなさをその都度感じる度合いが大きい演奏なのである。そして、音の強弱に陰影の濃さがあり、結果、音に深みがあることを露わにする。だからといって、強弱のつけ方に激しさがあるわけではなく、強弱があればあるほど演奏者の冷静さを際立たせる。さらに感じたこと。曲の途中にある速いパッセージに、伴奏のように同じ音符が並んだ個所があり、そこでは、決して一音たりともおろそかにしていない。音、響き、すべてを大切にしていることが、聴き手にもこの瞬間を大切にしようと思わせてくれる。
以上のこと、これは、父であるルドルフ・ゼルキンが来日した際に聴いたときと似た感想だったことを思い出した。私は、血は争えない、と思う。しかし、演奏芸術に同時性はなく、その細部は異なる。それなのに、人生の早期に父から学べば学ぶほど、才能ある子が才能ある親を踏襲しているというだけの芸術ではないかと、その感性の鋭さが疑って苦悩し、そして、拒んだのであろうか。否、こんな推理は、在り来たりの音楽愛好家の浅慮である。
新聞で死を報じた編集委員は、91年に死の床にあったルドルフの指が、バッハのゴールドベルク変奏曲を弾いているとわかったと、後にピーターが回想して、父と息子との言葉なき和解が果たされたと記している。後年、Tシャツを脱ぎ、正装してリサイタルに臨んだすがたを目にしたかったとつくづく思う。
フリッチャイの映像
2020年01月02日
若くして世を去った音楽家は数多い。その中でも、フェレンツ・フリッチャイは、戦後しばらく活躍した指揮者で、48歳での早逝を惜しまれた。この正月休みに、彼が残したスメタナ作曲、「わが祖国」からモルダウを聴いた。
フリッチャイは、ハンガリーで生まれ、おもにドイツで指揮をとった。いくつかの交響楽団や歌劇場で指揮を続けて、重要な音楽監督を引き受けた時期に、白血病を発症。もし、ずっと長生きしたなら、20世紀を代表する指揮者となったと言われている。その彼が残した録画がモルダウである。すでに発症して、病魔と闘っていた彼と録画する当日に会った知人が、苦しげで、やつれた様子であったと述べている。彼も、果たして出来るかどうかわからない、昨夜は苦しくて眠れず、今日の録画を断ろうかと迷っていたという。そんな状態にもかかわらず、正に命を削って音楽を創った貴重な映像である。
モルダウは、ボヘミアを流れる河の名前で、スメタナは、その河の情景を音楽に映し出した。曲は、山の水源から河が流れ出すところから始まる。次第に水の量が多くなって、主題を歌い上げる。途中、農村での婚礼の踊り、夕やみが迫った静けさ、月の光に水の精たちが踊るという風景を描く。さらに曲が進み、水しぶきがかかるような激しい流れを経て、市中に流れ込んで徐々に弱くなり、河と別れを告げて曲が終わる。
10分少々の曲に対して、音源には、その4倍以上の時間のリハーサルが残されていた。そこでオーケストラ団員に伝えている言葉には、音の技術的な修正から始まり、生き方に至るまで、多くの事柄があふれ出ている。言葉だけではなく、時にテノール歌手のようにメロディを口にしながら、遊び心を感じて、と諭すように伝える個所がある。また、演奏した音に色彩感はあるが、足りないのは、生命が始まる驚き、喜びの表現である、という具合。そして、一つの生命のように、河が成長するため、ここで弦がしっかりしなければならない等、改めて、指揮者は語彙が多いと思ったのである。この愛すべき河は流れ去っていく、と団員に説くように伝え、最後の音を何度もおさらいをしてリハーサルは終わる。
曲の後半で、この曲は、生きることはすばらしいと歌っている、と団員に伝えて、さらに、すばらしい、と自分に言い聞かせるように言葉を発する場面がある。件の知人によると、余命が少ないことを自覚して敢行したようである。だからだろうか、リハーサルで発した言葉に、辞世の句、といって差し支えない、表現される音楽に比肩する力のようなものを感じるのである。
このところ、頼藤和寛さんの著作である「ひとみな骨になるならば」を読んでからというもの、刹那的になることしばし。とにかく、「あなたやわたしが宇宙の中心であるにせよ、いずれは死んで腐って、あるいは焼かれて、塵に戻る」という一文が、折に触れて脳裏をかすめるのである。これはごもっともであり、反論出来ることではない。読後しばらくは、たとえば、好きな音楽を聴いたところで、どうせ死ぬ身である、と自棄になり勝ちであった。そんな中でみたフリッチャイが残した映像。これは、私の記憶に留めたいという衝動にかられた。すなわち、「塵に戻る」自分なのに、彼のような指揮者に巡り合ったことを、偶然のすばらしさである、と称えたくなったのである。つまるところ、塵になる前に、このような出会いがあるのならば、喜んで塵に戻ろうと思った次第である。
舘野泉のピアノ
2019年10月23日
「春になったら笛を吹こうよ」
これは、私の妹が私淑していたピアニストの舘野泉さんが、妹に乞われて色紙に書いてくださった文言である。この色紙を妹がピアノ科在籍中に自分の部屋に飾っていた。一緒に下宿していた私は、毎日否応なく眼にすることとなり、覚えてしまったものである。今は昔、1936年生まれの舘野さん30代、半世紀前のことである。
先だって、Eテレで舘野さんが出演したスイッチインタビューをみた。番組の半分は、舘野さんが生命誌研究者の中村桂子さんに語ったものである。舘野さんは、60代半ばに演奏会途中で脳出血を発症し、右手に麻痺が残った。以後2年のブランクを経て、左手のための曲をプログラムとして復帰演奏会を行い今に至るという、ピアニストとして波乱万丈の半生を有している。番組の中で、ピアノを何十年もやってきたことは、自分の中に樹林のように残るものであり、音楽はいつでも在ると語った舘野さん。発症後は、自分のやりたいことが見えるようになり、出来るか出来ないかは考えないそうである。そのことを中村さんから楽天家ですねと言われていた。
復帰して取り組んだ曲のうちで、左手のピアノ曲としてブラームスが編曲したバッハのシャコンヌについて詳しく語っていた。すなわち、この編曲は単音で続けて弾くため、重厚さがなくつまらないと感じていた。通常、音は両手で弾いて、たくさん鳴るものであるからである。しかし、弾き始めて2ヶ月くらい経ち、この曲が呼吸していることがわかるようになったという。それからは、曲が生きてきて1つの音楽になり、1つの音が立ち上がると、世界が変わることを左手で演奏することで知ったと語っていた。舘野さんが弾いたシャコンヌを改めて聴いた。単音が気になるどころか、バッハの曲にいつも感じる、あたかも夜空の星がゆっくりと動くような、天体の流れがあった。もちろん、左手だけで奏でていることは、意識するまでもなかった。
さて、私はモーツァルトの曲にも、いくつもの自然の流れを感じる。曲の途中で長調から短調に変わる、あるいは短調から長調に変わる転調のしかた、遠い昔を思い出すようなメロディ。それらは、ああこの流れだと感じつつ、音がまとまって身に沁みるような感覚を抱く。たとえ、劇的な音量が含まれていても、モーツァルトの音楽は、減り張りのある毎日の変わりように逆らわず、自然の一員として適応する人間の営みがそこに在るように聴こえる。舘野さんのバッハを聴いていて、そのようなことを連想したのである。
以上のことから、30代ではない、80代の舘野さんは今でもずっと、春が来たら笛を吹いているだろうと改めて想像する。そして、スイッチインタビューをみながら、妹の慧眼に感心もしたのである。
岡部桂永子リサイタル
2019年07月29日
ピアニストの岡部桂永子さんが中心となったリサイタルを昨日聴いた。プログラムは、プーランク、ラベル、フォーレ、ドビュッシーなどフランスの曲でほとんどを占められていて、それに加えて、前半の最後に、ベートーヴェンのピアノソナタ第23番が取り上げられていた。彼女にとり今回が3回目のリサイタルで、副題には~ピアノに映る光と陰~と記されていた。何でも、最近主に弾くベヒシュタインピアノには、暗い響きがあるそうである。フランスものに、暗い響きがふさわしいのかどうかは、私にはわからない。しかし、ベートーヴェンの23番目のソナタには、光も陰もその存在を示唆するようなフレーズが多くあり、ご本人の響きについての解説も相まって、私はベートーヴェンを待ち遠しく思った。以下、このソナタの感想文である。
第23番は、ピアニシモ、弱いユニゾンの下降音型で始まる。すなわち、ヘ短調の主要和音を分散させてド、ラ、ファと弾き、最低音のファで付点2分、付点4分音符の長さで音を保つ。それから同じ音で上にたどり、2小節の後、今度は1音上がって転調して、レ、シ、ソと再び下降し、また同じようにソの音を長く保つという具合である。ここにある2回の下降音型の底に位置するファとソ、ここで私は立ち止まってしまった。何故なら、弱音であるにもかかわらず、胸に直接届くような響き方であったからである。まるで闇の中にいるのに、深淵な広がりが見えると言ったら良いだろうか。これは、スタインウェイピアノであることを差し引いたとしても、音がいま「在る」ということを久々に感じたのであった。いや、この低音が広がりをもって鳴らなければ、曲の全体を俯瞰できないくらい重要な音であると言ったらいいのかも知れない。そのことに彼女が気づいた弾き方だったのである、おそらく。実は私は、この響きに圧倒されて、その後の展開をよく覚えていない。彼女は、曲をまとめるにあたり、この2つの音をどう意識したのかを知りたくなった。そんなことを思っていたら、第1楽章がヘ短調の主要和音をもって静かに終わった。
この曲が通称「熱情」と呼ばれる所以は、第2楽章から切れ目なく始まる第3楽章にあると思うのである。ここに、アレグロ、速く弾くという速度記号に、マ・ノン・トロッポという、しかし甚だしくなく、とベートーヴェンがよく用いる注釈をつけて、曲がどんどん流れる。8分音符を主にして、劇的さが増して、さらに増して、激情的な終結部につながる。プレスト、急速にという速度記号が与えられているこの終結部で奇跡が起こった。これまで、ほとんどのピアニストが選ばない、極めて急速な速度で弾き通したのである。こんな速い弾き方は、スヴャトスラフ・リヒテルをおいて、私は記憶にない。人間のエネルギーは際限ないこと、音楽はいくつもの感情を鼓舞すること、激しさを伴う生き方等など、一瞬間に頭をかすめはしたものの、音の洪水にかき消されて、恐ろしい勢いのまま終わった。そして、弾き終えて引き上げる際の平然とした表情に、岡部さんのポテンシャル・エネルギーの大きさを感じた。
この曲の途中にあるフレーズの継ぎ目など音のない部分で、岡部さんは、次に備えるため主に首を振ってリズムをとっていた。つまり、音のないことが返って音の緊張感を生むという背反を体現してくれた時間もあった。これまで、岡部さんの弾く音楽には、ずっと慣れ親しんだ安心できる音があり、家に帰ってきたような気分にさせられた。当日聴いたフランスの曲がそうだった。しかし、ベートーヴェンはちがった。私にある平静さがかく乱されたようである。音楽は、聴衆を併せた三位一体で成り立つというが、ベートーヴェンと岡部さんの存在が際立ったリサイタルであった。
クレンペラーのオーケストラ
2019年04月01日
新年に久々に会った孫にCDを聴かせようとしたときのことである。彼はこうした音楽との出会いをきっかけに、いろいろな音楽に接していくのだろうと思ったことから、ふと、私が昔に音楽を聴き始めた頃のことなどを思い出した。
まだ私が幼稚園児か小学生だった昔、自宅で音楽鑑賞するための音源は、モノラル録音のSPレコードであった。何年か経ち、LPレコードに取って代わり、ステレオ録音が我が家にやって来た。そのLPを初めて聴いたときのことは忘れられない。すなわち、各々の楽器が分離されてくっきりと鳴り、より原音に近い音が聴こえたからである。楽器編成の小さな室内楽はもちろんのこと、大編成のオーケストラの弦楽器、管楽器そして打楽器の位置関係までもがよくわかった。そして、あれこれを聴いて調べて、という音楽三昧していたある日、指揮者オットー・クレンペラー(1885-1973)の演奏は、他の指揮者と楽器の配置がちがうことを雑誌で知った。この配置のことはその後、すっかり忘れていたが、孫にCDを聴かせる段になって急に思い出し、クレンペラーのオーケストラについて考えてみたくなった。
一般にオーケストラの楽器配置のうち弦楽器は、通常第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンがひと塊になって指揮者の左に、そしてヴィオラ、チェロは指揮者の右に位置することが多い。図1にそれを便宜上通常型として示してみた。
図 1
近年のほとんどの音楽愛好家は、この配置のオーケストラを聴いてきた。ところが、クレンペラーは、第1ヴァイオリンを左、第2ヴァイオリンを右と、両翼に分けた配置をとっていた。これを両翼型といい、図2に示した。
図 2
そのクレンペラーの演奏を、孫が帰った後の正月休みの残りに、改めて聴き直した。曲はベートーベンの2つの交響曲。先ず、クレンペラーがステレオ録音で残してくれた交響曲第5番、通称「運命」である。この曲は、両翼型の特徴が冒頭から現れる。図3の楽譜に見るように、運命は斯く扉を叩く、と俗に言われる最初の5小節のあと、6小節目に第2ヴァイオリン、7小節目にヴィオラそして8小節目に第1ヴァイオリンと同じフレーズが続く。この部分は、両翼型の妙味で、1小節ごとに配置のとおり演奏音が右から左に流れるのである。
また、図4に示す交響曲第9番にも、第2楽章9小節目から第2ヴァイオリン、ヴィオラ、第1ヴァイオリンと、右から左へ流れる個所がある。
この部分をこれまで多くの指揮者が採っている通常の配置で聴くと、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同じ場所にあるため、左、右と進んだ後、また左に戻って音が鳴ることになり、両翼型のように、右から順次左へと流れるようにはならない。一方で、両翼型だとヴァイオリンが分かれていることで、第2ヴァイオリンは存在感を得たためか、先導役として流れを際立たせている。ヴィオラを併せた3つのパートそれぞれが、しっかりその存在を主張し、生き生きと進行していることがわかるのである。
以上のような右から左への音の流れのほか、両翼型では、ヴァイオリン同士の協奏についても通常型とは違う鳴りを聴くことができた。ほとんどのオーケストラ曲で、両者は、似た音の動きをすることが多い。たとえば、第2ヴァイオリンは、第1ヴァイオリンの音の1オクターブ下かあるいはユニゾン、まったく同じ音で演奏するというように。これらを通常型で聴くと、第2ヴァイオリンは第1ヴァイオリンの黒衣に徹しているようにしか私には聴こえない。特に第2ヴァイオリンが第1ヴァイオリンの1オクターブ下の音を奏でる際には、耳が第1ヴァイオリンの高い音を聴いてしまうため、第2ヴァイオリンの音は埋もれてしまうのである。ところが、クレンペラーの演奏では、たとえ1オクターブ下の音でも右から聴こえるため、全体としてヴァイオリンが拡がりをもって迫ってくる。たとえば、図5に示した「運命」第4楽章61小節の下降音型。
音の持つエネルギーの強さが両翼に在る。その音たちの拡がり方から、つい、音の鳴りを擬人的に例えたくなる。我々はこんな鳴り方もできるのですよ、と声掛けしてくれているかのようである。右側に位置することで、まるで水を得た魚のように躍動的に満ちた演奏となっている。第2ヴァイオリンは、もっと注目されても良いということを下支えする個所である。
クレンペラーは、音源のみではなく映像も遺してくれた。映像は交響曲第9番。残念ながらモノラル録音であるものの、視覚的にヴァイオリン同士の協奏がよくわかり、聴いたことを裏打ちしてくれている。すなわち、第2ヴァイオリンが第1ヴァイオリンに替わってテーマを奏でることもあれば、第1ヴァイオリンと掛け合うこともあるのだが、クレンペラーが右に位置する第2ヴァイオリンに顔を向けて指揮する場面が何度も見られる。これを見て、彼が如何に第2ヴァイオリンをクローズアップしているかがわかった。つまり、両翼型の配置にすることによって、その意外に多い、第2ヴァイオリンの役割を聴く者に喚起させてくれたといえよう。
このオーケストラの楽器配置については、時代や指揮者によって様々であり、各々が工夫を重ねてきたようだ。D・ウルドリッジの『名指揮者たち』(東京創元社、1981)にも、古今の指揮者による様々な配置が図示されていて、どうも決まった配置はなさそうだ。しかし、金子建志の『オーケストラの秘密』(立風書房、1999)によると、モーツァルトやベートーベンの時代には両翼型が普通だったようだ。当時、この配置での演奏が行われていたようだから、ベートーベンがこの配置を当たり前として曲を作っていたとしたら、そもそも彼の曲は、両翼型で演奏する方が良いのではないかと思ったのである。私が、第2ヴァイオリンたちが水を得た魚のように奏でていると感じたのは、おそらくそのせいであったろう。
以上、聴き古したベートーベンの曲を、新年に「聴き初め」のように聴いた。クレンペラーが第2ヴァイオリンの存在に気づかせてくれたことは、私にとってのお年玉であった。そして、両翼型を採った演奏は、ベートーベンを、彼の活躍した時代にまでさかのぼって再現させてくれて、新年に相応しい音に包まれたひと時であった。
(紀南医報2019に寄稿)
妹にひかれてリサイタルへ
2019年02月20日
ピアノ科を出た私の妹から、リヒテルのピアノ・リサイタルを聴きに行こうと誘われたのは、私がちょうど二十歳の時だった。日本に初来日した、そのリヒテルの名演に興奮して以来、彼のファンになったのは言うまでもない。すでに初来日を聴いてから40年以上経った数年前に、また妹から、ユリアンナ・アヴデーエワはすばらしいピアノを弾くからと、聴くことを勧められていた。果たして、アヴデーエワを聴く機会に恵まれたのである。以下はその鑑賞メモである。
リサイタルは、ショパンのマズルカから始まった。大勢の聴衆が静かに固唾をのんで見守る中、静かに音が鳴り始めた。まるで、ヴァイオリンだったら弱音器をつけた如くに。音楽が進み、大きな音になっても、何の破綻もなく静かな音がそのまま大きくなったようだった。マズルカ3曲を弾き終えた次のピアノソナタ第3番、出だしの一度聴いたら忘れられない下降音を絶妙なリズムで奏でる。あとに音楽が展開しても、その下降音は、いつまでも耳に残る。終楽章は、叩きつけるような和音から始まり、終始激情的なメロディが在り、そこを圧倒的なエネルギーを発散して終えた。それなのに、何ごともなかったかのようにお辞儀をし、平然とした足取りで舞台をあとにする彼女と、たった今終わったドラマチックな音楽との得も言えぬ乖離を感じたのは私だけだっただろうか。詩情は、体力と精神力があってこそ生まれる、という言葉が休憩時間にボーっと浮かんだ。また、超越的なものは、些細な日常生活動作と一体なのだということも。
後半は、シューマン「幻想小曲集」からであった。音の粒が一つ一つはっきりと聴こえるからなのか、メロディがやけに優しく響いた。曲集の最後を静かに弾き終え、鍵盤から手を離して、なお静かに座り続ける彼女。大勢いる中で、誰一人として拍手せずに、無音の中で時が過ぎる。そして、彼女の何かの動作の後の万雷の拍手。拍手をすることの喜びがまことに長く続いた。音楽が終わり、無音のまま拍手できずにいた経験は二度目である。昔バーンスタイン指揮、マーラー交響曲第9番を聴き終えたとき以来であった。
アヴデーエワは、リサイタルをシューベルト「さすらい人幻想曲」で締めた。この曲もタフな音が連続していて、正直なところ聴き疲れた。彼女も途中で集中力がやや弱くなったのではないか、と思う個所がほんの少しあったものの、31歳で夭折したシューベルトの歌心を思う存分響かせてくれた。聴き終えて、リヒテルが弾いたさすらい人を思い出したのは偶然か。二人ともロシアで活躍、まるで、さすらい人を十八番にするのは、ロシアですよという声が聞こえたようであった。
牛にひかれて善光寺に参った老婆が信仰心を持ったが、私は妹にひかれて、良いピアニストに巡り合った。