新型コロナ感染症と怖さ
2024年12月16日
NHKで、2回にわたって新型コロナ感染症に対峙した2つの医療チームの働きを取り上げていた。
1回目はクルーズ船の中で集団感染した人たちを治療した災害派遣チームの葛藤の記録。本来、災害に派遣されるチームが、船内が災害でもないことに加えて、感染の危険を伴いながら仕事を進めるというこれまでに例のないことを報じた。2回目は東京に第1波が押し寄せた際の医療従事者の闘いの記録である。ここでは、ある妊婦が感染し、帝王切開してから、意識がなくなり危険な状態になったことを取り上げた。ともに未知のウイルスによる感染に対して、前例のない治療を余儀なくされた医療チームが乗り越えたことの記録であった。
それから4年余経ったいま、新型コロナウイルスに感染しても、ウイルスが変異を繰り返したことによると思われる弱毒化された状態となっていて、当初のように重症化することが少なくなっている。それは、番組でも第1波では感染すると致死率が5.34%にも上ったのに対して、第6波から第8波では0.11-0.18%と少なくなっていることを示していて、変化は明らかである。
さて、この5.34%の致死率となった第1波。これは、20人感染すると1人亡くなる数値である。当時、役者の志村けんさんが亡くなったこともあって、恐れはピークに達した。その後、感染者が急激に増えて、当地でも多くの人が感染した。数字の上では致死率が徐々に少なくなっているものの、第1波の衝撃が尾を引いていた。そんな中で、当院にも感染を疑ったり、心配したりした人が、いわゆる押し寄せてきた時期があった。私は医師とは言え、患者さんに相対することが怖かった。そして、診察しながら、感染防御をすでに受けたワクチンに託する気持ちになったことを覚えている。
そんなことを思い出したのは、NHKの番組の途中で、クルーズ船に乗り込む前の医師が「怖い」と言っていたからである。その医師は、怖いけれど「背負わなければならない」「リーダーの役割の一つ」と述べて、行動に移したのである。私も怖かったけれど、来られた患者さんを、何故だか拒まずに診察を進めた。それだから、テレビで述べていた「背負わなければならない」という言葉に共感を覚えたのである。
ひとは、突然身に降りかかった非常事態に遭遇すると、何にも超越し、自然に湧いてきた勇気ある判断が瞬時に芽生えることがあるのかも知れない。そのように思わないと、怖いことを前にして、拒まずに行動したことを説明できないのである。2回目の番組で、東京の医師が、「生と死の究極のところに立たされて、自分の在りように大きな影響を与えた」と述べていた。病院で先端医療に従事する医師と、私のような開業医とでは、同じ職業と言えないくらいの業務の差がある。しかし、行動の始まりは同じだと思いながらの番組視聴であった。
100年
2024年11月13日
過日、母が100歳の誕生日を迎えた。その翌日、市役所課長さんと社会福祉協議会会長さんがお祝いに来て下さった。「人生七十古来稀なり」、その古希を30年も上回ったのだから、そうそう万人が到達できる年齢ではなく、身内ながら、祝っていただくことの稀有さ、ありがたさをそばで感じていた。このところ母は、100歳に自分がなるなど信じられないこととよく言っている。そんな母が、祝いの席で長寿の秘訣は何かと問われ、毎朝野菜を食べていると答えていた。
秘訣とは、奥の手や奥義といわれることであり、何やら字の通り秘密めいたことである。秘密であるかどうかはともかくとして、最近母と朝食の際に、家では野菜をずっと多く摂っているが、毎日摂り続けたら良いと話し合ったことがあった。野菜を摂る効用は言うまでもない。それに加えて、直近の朝の話もあって、口をついて出たのだろう。
さて、当の本人も不思議がっている100歳到達。市役所や社協の方だけではなく、そばにいる私だって、何故長生きできるのだろうと思うのである。それでも母と生活を共にしていると、長生きに資すると思われる幾つかの生活行動が浮かぶ。すなわち、母は、暑さ寒さに殊の外敏感なようだ。たとえば私が、風が吹いていると思っていると、横で「寒い」と言葉を発する。自然の変化より体感の変化に敏いのだろうと思う。そのことは、風邪を引くなど、身体への侵襲を防ぐことになり理にかなってもいる。また、人と話すのが好きである。「電話いのち」という言葉が相応しく、少ない範囲ではあるものの社会性が電話を通して保たれている。膝痛で行動制限があるにしても、携帯があれば事足りるのである。
以上、少しだけ例を挙げてみた。何だ、そんなことが長寿に与るのなら簡単なことだ、と思うことばかりである。しかし、このようなことが100歳まで到達することに必要でも十分でもないことは想像できる。野菜を多く食べる人は数多いる。身体が感じやすい人も、話し好きな人も特殊ではない。長寿の条件を、母を例にとってみても簡単には糸口が見つからないことはわかった。考えてみると、人の細胞は約60兆個あるといわれ、それらを何十年も統御しているのだ。改めて細胞の数を想像しながら長寿を俯瞰すると、さらに簡単ではないと思い知らされそうである。
長生きの秘訣は、との問いかけを機に少しだけ思いを巡らせた。そばで母を見ていても、がんばって100年を生きた、というような意思は持ち合わせていないと思う。自分のことを先ず考えながら、気がついたら100年経ったというような具合なのだろうと思う。秘訣もただ、身体によくないことはしないという程度のことだと私は思う。おそらく、100歳になった多くの人も、がんばって100年生きる、という人はあまりいないのではないだろうか。ただただ100年が過ぎたというおおまかさにあふれることしか浮かばない。周りの人に祝っていただくなかで、毎日を共にしている私のありふれた感想である。
診療、年齢そして年相応
2024年10月06日
数年前のことである。私は、昔自分が若いときに当時年配だった患者さんが訴えたことを、若さゆえにきちんと聞いてあげられなかったことをHP上に書いた。それは、自分が年を重ねて身体の不具合を自覚して初めて、訴えていたことがおぼろげながら、ああそうだったのかと思ったことから、比べるため敢えて昔のことをもちだしたのである。
私は、数年前のある時期から、年配の患者さんと年齢が近いと感じるようになり、若かった頃とはちがう関係になったと改めて感じた。すなわち、年を重ねたことにより、診察室では、自分が体験しつつある身体の不具合を基にして応ずるということが診療に加わった。
さて、年を重ね、それに伴って身体も変わることは述べた。それは、静かに、あるいは急に変わることがあり、しかも、一つではなく幾つもが襲ってくる。数年前までは、運動器官と感覚器官の不具合によって、行動制限を余儀なくされた。腰痛、足のしびれ、視力低下などがあるものの、ある程度限られていた。それが、このところ、消化器、循環器、泌尿器と次から次へと加わり、大腿骨など手術を勧められる事態なのである。しかし、本当に幸いに、予後(見通し)が悪くなく、無理をしなければ、何とかなる現状におさまっている。それでも、これまでにはなかった通院、相談に時間が割かれてしまう。静かな余生などという境地になるのは、いつのことだろう。身体の不具合が複合的に襲ってくるいま、ひと言でいうと、忙しい。
過日、敬老の日を迎えた。その日の天声人語には武者小路実篤の名言を引用している。「真から本気になって生きてみたい」「人生は楽ではない。そこが面白いとまあしておく」などの文言を眼にしていたら、つい、ゆとりのない私の性分と比べてしまった。そして、天声人語子は、「自らの老いもまた、しずかに見つめてみたい一日である。」と結んでいる。この人は、新聞社社員で50代か。私が50代の頃、老いを静かに見つめていたかどうかはともかくとして、人それぞれだと改めて思った次第である。
ハチ退治
2024年08月26日
先日来、毎日庭木に水やりしている。猛暑に加えて、日照りが続いたことで、サザンカが枯れかかってきたからである。ところが、水やりしていると、ハチがブンブンと飛んでくるのだ。以前、カシノキやキンモクセイのてっぺん近くに巣を作っていたことがあったから、上の方にまた作っているのではないかと、恐る恐る首を伸ばして探した。しかし、どうしても見つからず、水やりのたびに怖い思いをしていた。
ある日のこと、ふと低木であるサツキを、首を縮めて見たら、立派な巣があるではないか。道理で、水やりしたら騒ぐはずだ。さて、退治してもらうにも、庭師さんは来てもらったばかりで、お願いしにくい。そこで、市役所環境対策課に電話してみた。そうしたら、75歳以上の市民だったら援助するが、75未満なら防護衣を貸し出しするので自分で退治して、ということだった。防護衣だけだなんて、埒が明かないから、思い悩んだ末に、同級生の友人に相談してみた。ありがたいことに二つ返事で引き受けてくれたのである。
友人は、防護衣に身を包んで、サッとスプレーを巣にひと吹きして、あっという間に完了。他の個所のサツキにも別の巣があり、こちらも退治してもらった。ありがたかったことは言うまでもない。彼は、仕事柄ハチの巣に何度も遭遇するのだろう。その手早さは見事であり、その姿は自然体であった。そんな短い時間のなかで、彼の存在がやけに大きかった。彼とは、小学生の時に近くの川にウナギを取りに行くなど、共有した時間が多かった。その後、年を重ねてそれぞれ進む道はちがってしまったものの、兎にも角にも半世紀以上交流が続いている。
彼がハチ退治する立居振舞に、ふと、「餅は餅屋」という慣用句が浮かんだ。しかし、そのようにして言葉を使えば説明できるわけではないことも思った。そして、私とはちがった進む道を歩んでいるなかで会得したのであろう存在の「大きさ」をしばらく想っていた。ヒトは何事によらず反復することで身につける。身についたものは常に大きいか。そうではないだろう。ハチに刺されるという危険を冒して対峙していることが、大きさを生じるのか。そうではないだろう。昔、彼とウナギ取りしていたとき、彼は川の中にあったガラス瓶のかけらで足を切った。私は彼を背負って家まで連れてきた。幼かった頃から、いまに至る時間の流れと、ハチ退治している彼のいまを鳥瞰した。そして、一筋縄ではない過去からの集積が浮かび、一瞬にして大きさを感じたのである。
ハチ退治の顛末は以上である。蛇足ながら、彼は、ハチがこんな風に低木に巣を作るなど、あまり見かけたことがない、何か天変地異の前兆ではないだろうか、と発したことが気になっている。こればかりは、彼の「大きさ」と無縁であって欲しい。
懐かしい道
2024年07月14日
昨年末、奈良の山道の一部が崩落した。崩落の規模の大きさに加えて、地質調査の結果、深層崩壊の危険性があることから、長らく通行止めとなっていた。この道は、大阪を始めとした関西圏に行く縦断最短路であり、よく利用していた。ドライブが好きな私には、無数のカーブを用意してくれてもいる。しかし、通行止めの間は、県北部を横断している高速道路を利用せざるを得ず、その都度、約90キロ余計にドライブさせられるのである。
それが、崩落して半年後の先月末に仮の橋ができて、やっと交互通行ではあるものの、縦断できるようになったため、さっそく通ってきた。半年ぶりの道路、半年ぶりの景色。まるで旧い友に出会ったような感慨を抱いた。それもそうだ、私はかれこれ20年余、この道をドライブしていたのである。しかし、ここは2級国道であり、整備の点で1級国道より残念ながら劣っていて、至る所に劣化した「あかし」が露わになっている。このあかし、すなわち舗装の継ぎ目の段差や浅い穴ぼこ、これらを私は場所も数も覚えていた。数10キロにわたって、ほとんど覚えていた。それは、まもなく段差がある、身構えておかないと、という具合に。クルマが揺れるたびに、懐かしいという思いに満たされた。そのうち、旧い友という感覚を超えて、路面をいとおしく感じるようになり、何ともハッピーな気分で駆ったのである。この、道とクルマとの関係を誰にも感じて欲しくないという独占欲までもたげてきた。これは、思ってもみない自分の内の変化で、段差も穴ぼこも擬人化してしまった。しかし、この気分も、何故だかわからないが帰り道には失せていた。懐かしさは微塵もなく、半年前までと変わりなく、ごく普通のドライブ時間を過ごしながらの帰宅であった。
話変わって、メンデルスゾーンの音楽劇で知ったシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」のことである。ここでは、森で会おうとする男女がいて、妖精が魔法を使ったり媚薬を使ったりして、劇が進行する。さて、劇のように真夏ではないし、夜に森に入ったわけではないものの、梅雨時に私は、久しぶりに勝手知ったる山道に入った。そして、まさかのハッピーな気分を味わった。そう、まさか妖精が魔法を使って、段差や穴ぼこを工夫したわけではあるまいに、そんなことを連想させられた。ドライブでしか得られないひと時であった。
ショパンの臨時記号 ー音楽は学ぶものか?ー
2024年06月05日
最近読んだ書物に、高名な音楽評論家のことを痛烈に批判する記事があった。曰く、野球など、スポーツ評論家は、かつて一流の現役選手として活躍し、その経験を基にして評論している。しかし、この評論家はもともと演奏家ではなく、いったい「自分のどんな能力を信じて評論しているのだろうか。」と冒頭に書かれている。この音楽評論家に、私は長らく私淑していたこともあって、この文章を読んだ後は、何とも落ち着かない気分になった。言わば、身内をけなされたと言ったら、その気分を説明できるかもしれない。
批判は彼の出自に至るまで多岐に及ぶ。評論家の多くは、LPやCDで音楽を聴いて、深く理解したような錯覚に陥り、評論を始めたようだと記している。さらに、作品について論じるときには、LPやCDを基にしていて、楽譜の存在は希薄、つまり、作曲家がかいた楽譜を重んじることなく、演奏家の演奏を通して作品に接しているというのである。この高名な音楽評論家の書く文章にも同様のことがあり、彼はアマチュアの域を出ていないと、全否定の様相である。何をかいわんや。著者は芸大を中退したものの、欧米の大学で学んだ作曲家である。そのような御仁が発した言葉であり、私には、音楽評論家はもっと専門的に音楽を学べと言っているように聞こえた。
前置きが長くなった。さてさて、私は先だってからショパン前奏曲第15番を練習している。この曲は、中間部にある1オクターブを多用した劇的な響きを有する短調部分を挟むようにして、前後に夜想曲風の表情豊かな部分があり、その対照が特徴的である。曲は、ファレラーシド、と始まり、レミファソーファファーミレ、と受ける。この組み合わせがもう一度繰り返される。ここは、数多くあるショパンのメロディのうちの一つで、繰り返されることによって、記憶に留められるメロディでもある。きれいなメロディだから、あるいは、表情豊かなメロディだからという理由があるとしても、そのメロディを何度も繰り返すわけにはいかない。そしてそのあと、肺腑をえぐるような音が出現する。
ショパンは、冒頭を繰り返したあと、曲を展開させるメロディを右手に託し、その際に伴奏のように弾く左手に、初めて臨時記号としてドに♭をつけた。これは、はっと息をのむほど美しく響き、右手のメロディを支える。こんな音があったのだ。それも、たった1音で、次にどう展開して、曲を形作っていくのだろうかと、期待を抱かせてくれるのである。この臨時記号のド♭は、5小節に渡って6個、そして、ソやファにも臨時記号をつけて、曲想が入り組む。
さて、この音に臨時記号をつけたことは、全体を構成するのに必要だったことなのだろうか。あるいは、ショパンが持つ閃きが、ここで臨時記号をつけさせたのだろうか。このことは、作曲法を学べば、わかることなのだろうか。閃くことは、よく学ぶとご褒美のように身につくものなのか。作曲とは。何も私に答えはない。これが、私のような音楽愛好家の性(さが)なのだろう。
ところで、冒頭の著書は、音楽愛好家についても触れている。すなわち、「名曲の名演奏を様々に聴き比べるのは楽しい。(中略)愛好家同士言いたいことを言い合い、それが高じて、レトリックを駆使した文章が発表できれば、さらに愉快である。」と書いている。何だか、作曲家からこのように言われて気楽になった気分なのだ。さて、気楽になったところで件のショパンの臨時記号である。誰もショパンに確かめることが出来ないのだから、勝手な想像を巡らせればいいという結論だ。評論などしなくてもいい。そして、学ぶのは、作曲家にお任せし、私は、音楽に引っ掛かったことに考察を加え、あれこれと楽しもう。楽しむための材料は、山ほど発掘したのだから。
しごとよりいのち
2024年04月07日
産業医は、定期的に研修を受けることを課されている。研修を重ねることで、ブラッシュアップを図り、産業医活動に寄与し、また、そのことが一定の単位を取って資格を更新することにもなる。今年受けた研修に、労働基準監督署からお招きした方の講演があった。講演では、過労死をなくすために取り組むべきことに割かれた時間が多かった。過労死を防止することは、喫緊の課題ととらえ、いただいた資料の表紙に、「しごとより、いのち。」と大きな字で書かれていて、これまで受けた過労死に関する講演とは異なった強い国の意思を感じた。
働く人の長期間にわたる過重な労働は、疲労を蓄積し、脳・心臓疾患の発症に影響を及ぼすと言われている。特に、1ヶ月当たり80時間を超える時間外・休日労働がある場合は、発症との関連性が強いとされている。また、働くことで強い心理的負荷がかかると、正常な認識が阻害され、自殺を思いとどまる抑制力が低下すると言われている。長時間の労働を減らすために、事業主が取り組むことも述べられた。すなわち、事業主は働く人の労働時間を正確に把握すること、有給休暇取得増加、メンタルヘルス対策の割合を増やすこと、健康づくりを支援すること等など、多岐にわたっている。
これらの話は、その後行われた各事業所での安全衛生会議で披露した。私は、もう少し医師の立場から、栄養についても触れるようにしている。長時間に及ぶ勤務のあとは、ほとんどの人が食事を簡単に済ませてしまうことが多いようだ。それが一度や二度のことならまだしも、長期に「簡単食」が続くと、栄養の偏りが生じることが予測される。その結果、身体特に血管に影響が及ぶと、瑞々しさがなくなり、破綻しやすくなることとなり、重大な結果につながるだろう。だから、長時間労働は戒めなければならない、ということを付け加えている。
いのちの大切さは論を俟たない。幾重にもそのことを考えることが要るだろう。先ずは、「簡単食」ではない毎日の生活をすることから検討して欲しいと願っている。
相撲と習慣
2024年03月30日
大相撲春場所で110年ぶりに新入幕優勝を果たした尊富士。その快挙のニュースも一段落したこの頃である。優勝に酔ったからなのか、この数日、テレビをつけても大相撲の中継はなくて、ああ、終わったのだった、とたびたび確認する夕方のひと時である。終わってから、こんな風に後を引くことは、これまでなかったように思う。私には、場所中から存在感の大きな新入幕力士であった。その実力の分析は、専門家に譲る。
さて、力士は仕切りを重ね制限時間になると、呼び出しからタオルを渡されて、顔や身体を拭う。その拭い方は十人十色であり、力士一人一人に特徴があることが一目瞭然である。取り組みが始まって何日目だっただろうか、尊富士のタオルの扱いに目を見張った。彼はタオルを使ったあと、そのタオルを何と、ていねいに二つ折りにし、さらに折って小さくしてから呼び出しに返していたのである。ほとんどの力士は、タオルで拭った後はそそくさと、そして、人によってはぞんざいにというと言い過ぎだが、拭いたまま呼び出しに返して、すぐさま取り組みに集中している。
力士に限らず、ひとは生活の決まりきった行ないを、親からのしつけなどから習得する。彼の「タオル折り」は、しつけられたからなのだろう。何をどうしつけられ、「タオル折り」になったのか、ということはさておき、折ることが勝負に集中する一助となっているが如くの所作なのである。さらに、折るから勝つ、とあり得ないことまで想像した。私は、その習得した過去にも思いを馳せながら、毎日みていたら、あれよあれよという間に、大鵬の新入幕からの連勝記録に並んでしまった。
優勝を決めてからテレビの画面では、青森の実家の祖父が、「ほっぺにチューしたい」と満面の笑顔を振りまいていた。その笑顔と「タオル」とが重なって、家族の皆さんと彼の勝負強さとがさらに重なってみえた。もちろん精進の上での優勝にちがいないものの、育まれた習慣も力士の強さに一役買っていると、私は確信し、「巨人、大鵬、卵焼き」世代には、得も言えない記録を目の当たりにした春場所であった。
リズムの権化
2024年03月03日
遠い昔、学生オーケストラを聴いた。演目の最後はベートーヴェン交響曲第7番。リズムの権化という愛称があるこの曲で、そのリズムを刻むのに、ティンパニの役割が大きい。当時、学生オーケストラでティンパニを担当していた人が、サッカー部にも所属していた。その彼が、サッカーの練習より、この曲を演じる方が体力を消耗するというようなことを言っていた。
確かに譜面を見ると、全曲に渡って出番が多い。特に終楽章は冒頭からff(フォルテシモ)やsf(スフォルツァンド)が多くあり、ほぼ連続して叩き続けるように描かれている。その最終は、何と音符が61小節連続していて、しかも、sfはもちろんのこと、fffに至るまで強い記号が連なる。
ティンパニ奏者の昔のコメントを思い出したのは、晩年の小澤征爾さんが振ったこの曲を聴いていたときのことであった。このような愛称がついたのは、ティンパニだけではなく、リズムがオーケストラ全体から醸し出されるからだ。改めて、身振り手振りを含めた小澤さんの佇まいにぴったりの曲だと思いつつ聴いた。サイトウ・キネン・オーケストラの全員が強く弾く際に、一斉に身体の上体を低くしたり、逆に反り返ったりするような姿勢となる、その「風景」は、他の曲にも増してリズムを際立たせる。
小澤さんは、術後に体力が衰えただけではなく、腰痛も相まって、ほとんど椅子に座って指揮をしていた。それに、別の椅子も指揮台のわきに用意して、楽章の合間にそこに座って休んで、次の楽章に備えるという風であった。それが、第3楽章から終楽章へは休憩せずに演じた。終楽章の怒涛の進行に対して、ほぼ立ったままである。やせ細った体躯、椅子を用意しなければならない体力で如何に演じるのかを心配したものの、それは杞憂に終わった。すなわち、正確なリズム、力強さはもちろんのこと、今回の鑑賞で初めて気づいた、いわゆる「ゆらぎ」まで聴かせてくれたのである。生体にはゆらぎがあり、それが快適さにつながるといわれているが、メトロノームでは刻めないリズムが在った。おそらく、小澤さんは音符に内蔵するであろう自由度を確信的に垣間見たのではないか、と私は考えた。さらに、この第7番は、ゆらぎを表現するのに格好の「材料」なのだと動物的勘が働いた、ということも私は考えた。もちろん、ここに至るまでのリハーサルで、団員一人一人の力量に負ったところが多かったと拝察する。余談ながら、ティンパニ奏者は、体力的に望めばサッカーも出来るのではないかと夢想もした。
それにしても、リズムの権化とゆらぎ、というともすれば相反することの存在を発見、拝聴できた。さいわい、我が家には小澤さんの音源がいくつもある。これから何を発見できるか、追々楽しむことにする。
小澤征爾と同時代にいる
2024年02月09日
凱旋公演。1978年3月にボストン交響楽団を率いて来日し、日比谷公会堂での初日の演奏を行なった小澤征爾さんの公演ほど、この言葉にふさわしい公演はなかった。NHK交響楽団からボイコットされたという事件があって渡米し、10数年後に名門オーケストラを引き連れてきたのだ。演目はマーラー交響曲第1番など。公会堂の座席につき、程なくしたとき、小澤夫人が後ろの方から静かに入場し、その周りがサッと華やかになったことを覚えている。彼女の発するエネルギーの強さ。舞台が始まる前から、まさに凱旋していた。
ウィーンやベルリンなど、ヨーロッパのオーケストラに比べて、アメリカの方は大きな音量だというような定説が当時はあったように思う。そのことを踏まえて、団員が集まって本番前の音合わせを聴いていたら、何ということはなく、私の浅い経験からはあまり違いが感じられなかった。その後演奏が始まり、その響きは会場の華やかさと相まっていつまでも記憶に残った。そのためか、翌日にピアニストのルドルフ・ゼルキンと共演したことを失念してしまっていた。
今夕、NHK7時のニュースの最中、速報で小澤さんが亡くなったと報じた。10年以上前に食道癌を患って闘病生活していたことは周知のことで、最近の痩せられた様子を見るにつけ、こういう日が来ることは予測できた。各放送局が訃報を知らせるなかで、報道ステーションでは以前に放送した、モーツァルト・ディヴェルティメントK136をノーカットで再放送していた。若い演奏家たちを前にして、いつものように指揮する姿をみていた時のことである。第2楽章の途中で、思ってもみないようにテンポが遅くなる個所があった。テンポを落とすことで、若いときに作った、この曲にある深淵を覗かせてもらったようだった。しかし、小澤さんは楽しげに指揮している。こういうアンバランスが小澤さんに在ったのだ。
先に逝った指揮者の山本直純さんが、自分は音楽を大勢の人に親近感を持ってもらうように努めると言い、小澤さんに対しては、音楽の深さ、大きさを極めて欲しいというようなことを言っていたと記憶している。ニュースで世界中の音楽関係者が小澤さんの訃報にコメントしていたが、山本直純さんの言葉を裏付けしていると思いながら拝聴した。
音楽の申し子とも言える小澤さんと同じ時代にいたしあわせをかみ締める今宵だった。